過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

講演するほうは、相手は「かたまり」としてみえる。反応、反響がなかなかつかめない

「看とりとおくり」の講座は、全7回のうち、6回の講師をインタビュー役を務めた。講師は、僧侶、神職、牧師、インドの方。それぞれの死生観、看とりとおくりを聞いていく。

最後の講座は、まとめてとして、池谷が自分の体験を語ることになった。母のおくり体験から、質問応じて、いろいろな新興宗教真言や念仏、お題目などの話になった。

ぼくは、いつもはインタビュー役だ。講師が話しやすいように、話を引き出すように、あいづち、あいの手を入れる。あるいは、参加者の聞きたそうなことを聞いていく。

なので、自分のことをみんなの前で語るというのは、また別のありようだ。自分をもちだしてこなくちゃいけない。自分の生き方を表現することになるわけだ。論文の発表とか、事業計画のプレゼンはちがう。これが難しい。

対話とか数名が相手なら、相手の反応がわかる。意義を挟んでくれるので、それに応じてこたえていけばいい。ダンスしていけばいい。それはやりやすい。

講演となると、眼の前の相手は「個人」じゃない。「集団」だ。一人ひとりいろいろな思い、語りたいことをもっているけれども、とりあえず「拝聴する」ということになる。

ところが、講演するほうは、相手は「かたまり」としてみえる。反応、反響がなかなかつかめない。

ただ、「空気感」としては、わかる。あれれ?この話は通じているかなあ、おもしろいと感じられているかなあ、退屈かなあ、とか。どうも重たいなあ、伝わってないなあ、うまく表現できてないなあ、なんだかわからない話になってきたぞ、という感じ。

次々と質問してくれたり、意見を述べてくれると、これがやりやすい。論旨はあちこち飛ぶことになるのだが、それはそれで、聞きやすいと思う。

まあ、これまでずいぶんと、講演は重ねてきたけれども、いつもうまくいった感じはしない。足りない感がいつも残る。まあこういうのは、場を重ねていくしかないけれども……。

ただ、これからの方向性は感じた。やはりみなさん「語りたい」「分かち合いたい」のだと思う。なので、参加者同士が語り合える場作りという方向がいい。

ぼくがファシリテイターとなって、参加者が語り合うというあり方。席も輪になってもらう。あるいは、数名ずつのグループにわかれて、語ってもらう。それをもとに、それぞれのグループを代表して、発表してもらう。そこからまた話を展開していく。次回の企画はそんなことを考えている。