過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

生きるということは、雑用ばかり

生きるということは、雑用ばかり。ひとつやれば、次にまた仕事。終わらない。限りなくある。ああ、いそがしい。ああいやだ。ああ、なんで自分ばかり……などという思いで仕事をすると、その瞬間瞬間の生き方は、被害者となる。それはまさに不幸な生き方。

どんなつまらぬ仕事でもたのしめること。あそべること。仕事をあそびとしてしまえたら、人生は天国。仕事を苦労と苦難と怒りと憎しみで行うと、人生は地獄かな。

たのしんで仕事をしているかそうでないかは、自分でわかる。体の緊張具合、息をするのが苦しい感じ、顔の表情、声の響きとして外に現れる。これが煮詰まってくると、どこか体に変調をきたす。病気になる。

しかしだ。どのようにしたら、つまらない仕事をあそびとしてしまえるか。これ、永遠の課題だ。

10年も前になるが、野口英世記念館で、渡辺和子さんの講演を聞いた。当時、渡辺さんは80歳。とにかくやんわり、ふんわりとした柔和な波動に満ちていた。とてもきれいな方で、肌も若かった。

「ものごとを雑にやれば、雑用になる。ひとつひとつ心を込めて、祈りを込めてやれば、心をみがくことになる。そして、環境の主人となる。くじけたり、挫折したり、失敗があるから、人生は深くなる」

シスターの渡辺和子さんは、そうような話をされた。

渡辺さんはシスターの衣装を着ておられた。ノートルダム清心学院の理事長として、女子教育の責任者、修道院の責任者であった。自己に厳しく、まさに「克己」という毅然とした内面がうかがえた。いかにもクリスチャンを体現された方と、ぼくには感じられた。

渡辺さんが9歳の時のことだ。二.二六事件で、教育総監だった父は青年将校に43発の銃弾を浴びて命を落とした。その現場にいて目撃している。