過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

今回は、親鸞について

(4)「殺」について、仏教のおしえの変化をみている。初期仏教、大乗・密教経典、日蓮とみてきたが。今回は、親鸞

歎異抄』にはこういう記述がある。「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(自分の心がよいからといって、殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるのだ)

心が優しくても、殺さないと誓っても、殺すなという教えを守っていても、殺す因縁があれば殺してしまう。それが人間ということか。

戦争が起きたら、殺しあう羽目になる。自分が殺されそうになったら、殺されないために相手を殺すだろう。わが子が殺されようとしたら、相手を殺すだろう。クルマを運転していて誤って轢き殺してしまうことだってある。

自分でこうしよう、こんなことはしない、といかに深く決意しても、そうはならない。自分の意志に反して、とんでもないことをしてしまうこともある。心の善し悪しとは関係なく、縁によって、いろいろなものが働いてくる。

あらゆる条件が刻々と変化していく。心の動きも刻々と変化する。ものごとは、どうなるのか、わからない。縁に従って動く。縁が尽きたら、離れれる、と。親鸞は「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」という。

ということで、自分というものは、アテにはならない。正しい教えを信じ実践し、正しいと思っていても、とんでもないことをしてまうのが、自分りのありよう。深い決意をしても、たくさん立派な修行をしたとしても、アテにはならない。そういう自覚がたいせつ、と。

では、親鸞にとって救いとは何か、みたいな論はまた別の機会に。というか、ものすごく暑いので、集中力が続かず、このシリーズはこれでおしまい。