過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

二宮尊徳の仏教観

二宮尊徳というと、薪を背負って本を読む、刻苦勉励、勤労倹約の大家のようなイメージだ。かれの語録を読むと、じつに合理的な考えの持ち主であり、仏教の造詣も深い。観念、概念としてではなく、みずからの生活実感・実践として、すべてをとらえている迫力がある。神儒佛正味一粒丸(神道も仏教もその教えはひとつ)とも述べている。▲難解な仏教の注釈や学説よりも、ズバッと本質を衝いているようで、おもしろい。

たとえば「浄土」について。▲「浄土と書けば、清浄な美しい土地である。静土と書けば、閑静なよい土地である。上土とすれば、この上なくよい土地である。定土とすれば、安居できるよい土地である。常土ならば、常住できるよい土地である。実に、浄土という音もおもしろいものではないか。▲思うに、一心を悟れば、どのような土地にいても、すべて浄土である。士農工商がおののの業務を楽しみ、その他のことを顧みないならば、それも浄土である。たとい子孫が多くてもその家に安住できずも、衣食を失ったならば、すなわち地獄である。」

それから、阿弥陀について。▲通常、阿弥陀といえば、阿弥陀如来西方極楽浄土におわす仏さんのこと。一心にお願いすれば、浄土往生をかなえてくれるといわれるのだが。尊徳は、次のように言う。▲「「阿弥陀」とは、天・地・人のことである。天を虚空蔵として、地を地蔵とし、人を観音とする。天は雨露を降らし、地は万物を生じて、ともに無尽蔵である。人は世の中の音声を観じて、今日を営む。すなわち、観音である。ここに三仏の徳が具備するからこれを名づけて阿弥陀といい、仮に仏像の姿かたちを設けて、衆生を済度するのである」(『二宮尊徳「語録」「夜話」抄』三樹書房より)