過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

子どもは子供同士で遊ぶのが、やっぱり一番いい。

ランの散歩の帰り、ほたる公園に寄ると、子供たちが遊んでいた。
おや、いつもあかりと遊んでくれるお姉ちゃんたちだ。

「あかりちゃんはー?」
「いるよ。元気だよ。一緒に、遊んでくれる?」
「連れてきてー」
「お姉ちゃんたちと遊ぶのを楽しみにしているんだよ。これから連れてくるよ。待っててね。」
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帰宅して玄関で呼ぶ。
「あかりー。お姉ちゃんたちが遊んでくれるって。さあ、いこう」。
 
あかりは、だだだーと駈けてきた。もう嬉しくてしょうがない。
いそいで靴を履いた(左右逆だった)。走り出す。急げ急げ、急がないとお姉ちゃんたちが、帰っちゃう。

でも、途中、すこし曇った顔になる。
「こないだ、お姉ちゃんたち、遊んでくれなかった……」

そうだなあ。先日は、初めてのおねえちゃんたちで、あかりと遊ぶのに慣れてなくて、無視されたのだった。その思い出が残っているようだ。

「大丈夫だよ。お姉ちゃんたち、いまあかりを楽しみにしているよ」。
そう言って、一緒に公園まで走った。
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二人のお姉ちゃんと一人のお兄ちゃんがいた。
「鬼ごっこしよう」
鬼になったら、つかまえる。つかまったら鬼になる。そういうのルールまで、あかりには、まだわからない。でもはしゃいでいた。
「ブランコやろう」
「滑り台やろう」
5歳になるおにいちゃんも、あかり見守ってくれてやさしい。
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お姉ちゃんたちは、葉っぱをたくさん摘んできた。ウラがたくさん毛があるやつだ。その葉っぱを服につけるゲームを楽しんだ。
大きな葉っぱに目と口を開けて人間の顔みたいにして、それをペタッと貼り付ける。
とても嬉しそう。
やがて、夕方。もう外は暗くなった。
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「また遊んでね」
「いつでもいいよ」
「ばいばーい」
子どもは子供同士で遊ぶのが、やっぱり一番いい。




今回の病をきっかけに、自然治癒、代替医療、体との深い付き合い方を

わがやはみんな健康で、父も母もほとんど病気しなかった。ほとんど病院に行くことはなかった。姉たちもそうだった。祖母が白内障で、診療所に通っていた程度かな。

いまおもうと、遺伝で受け継がれたものに加えて、食生活が自然食そのもので、よかったみたい。

風邪で休むなど、考えられなかった。幼稚園から高校にいたるまで、風邪で休んだのは、たった1日しかない。

医者に行った経験は、小さい時に肋間神経痛のとき。高校時代に、二度の交通事故に遭って、頭を強打して入院したときかな。
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東京から移住して、田舎暮らしをはじめて8年。いろいろ病気になった。もとり体力がないのに、山里に来たぞというので、力仕事など頑張りすぎたためかも。

まずは「帯状疱疹」。顔と頭にかかった。釣り針を千本くらい、顔に引っ掛けられて思いっきり引っ張られるような痛みが続く。

翌年には、「日光過敏症」にかかった。顔が火傷したように赤く腫れてカサカサになった。かゆくてかゆくてつらい。太陽の下では歩けなくなった。部屋はいつも遮蔽カーテン、運転する時にはもタリバンのように顔を隠す。でないと、痛みがくる。

ちょくちょく風邪を引くようになった。年をとってきて免疫力が落ちてきたのが要因だ。もとより低血圧(90-50)。元気なほうではない。
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今年は、冬に一か月、この秋に一か月。長期の風邪にかかっていた。子供が幼稚園や保育園から、強力な風邪のもとをもらってくる。

野口晴哉「風邪の効用」などを読んだりして、自然治癒に任せていた人生だったが、こう長引くと仕事にならない。ので、医者に行っては抗生物質を処方してもらう。細菌性なら、これはすぐ効く。胃腸の善玉菌もやられてしまうのだが。

ま、年を取ったら、こうして病気との仲良く付き合いが始まる。肉体はすこしずつ崩壊し、気力も体力も衰え、最終的には死をむかえる。死はよくやったという最後の締めくくりであり、この人生の完了。ま、あらたなステージの始まりのようにも思うが。
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日々(にちにち)の歩みは、常に最新の出発であり終着点である。できることしかできない。やれることしかやれない

雨が降れば降ったということだ。晴れれば晴れたということだ。風が吹いたら吹いたということだ。どういうことであっても、それはそれでいいということでしかない

そんなことがまあ、有り難いということか。何があっても受け入れられるという心境になっていかざるを得ない

今回の病をきっかけに、自然治癒、代替医療、体との深い付き合い方を見つめていくことになると思う。