過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

裁判と和解のこと

いま商標権のことで、友人から契約のサポートを頼まれている。相手は、契約に応じないみたいで、のらりくらりと時間ばかりが過ぎていく▲業を煮やした友人は、契約に応じなければ裁判するぞと意気込んでいる。まあしかし、裁判てのは、お金と時間とエネルギーがいる▲事実関係がはっきりしている裁判でも、まあ最低でも一年はかかる。相手が控訴すればまた一年▲そればかりやっているわけじゃないのだから、その間、集中力の持続はたいへんだ。弁護士を頼めば、どんどんと費用はかさんでくる。

そうして、勝つかもしれない、負けるかもしれない。勝っても満足だけで大したメリットがないこともある▲そのあたりを見越して、裁判官は「和解しろ」とすすめてくる。かなり強引にだ。裁判官にしてみたら、事実関係を審議して、判決文を書くのは、かなりの手間だ▲和解してくれれば、「はい。一件落着」となる。判決文を書いても和解になっても、どちらも、処理件数は1とカウントされるのだろう。だから、なんとしても和解すすめてくる。

かつて裁判を起こしたとき、乱暴な裁判官がいた。「だいたいどっちも悪いんだから、半々にしろ。痛み分けでどうだ」と迫ってきた。「いや、ちゃんと判決で示してもらいたい」というと、ムッとした顔をして「準備書面なんて読まんぞ」と脅してきた▲アタマにきて、裁判官忌避の行動を起こそうとした。その矢先、その裁判官は、いかにも面倒だと思ったのだろう、次回には、交代してしまった。次の裁判官は、あろうことか、ぼくの自宅まで電話をかけてきて、和解を迫ってきた▲「いや、和解なんてしません。それより、ちゃんと書面を読んでくださいよ。ちゃんと読めば、はっきりとわかりますから」と伝えた▲その裁判官は、しぶしぶと引き下がってくれた。で、結局のところ、判決を下してもらいも裁判は完勝したのだった。

まあ、今回の友人のケースは、双方、メリットがなさそうに思う。勝てるとも思えない。だから、裁判などしないで、話し合うのが得策▲相手が応じなければ、裁判を起こすとしても、和解の道を選ぶのが得策じゃないかと思っているけど▲まあ、ぼくはその過程のサポートを通して、いろいろ学べるので、どちらにしてもおもしろいと思っているんだけど。

 裁判   相手のウソが、露呈する瞬間がある

裁判でたいせつなのは、事実。事実かどうかが最大のポイント。そのためには事実を裏付ける証拠がたいせつ。たとい事実であって、その証拠がないときには、事実と認められないことがある。いつも真実が勝つとは限らないわけだ▲だから相手は、いかにも事実であるように、つくってくる。ときには、証拠を偽造してくることもあろう。裁判官は、たくさんの訴訟をかかえているので、仔細にみていない▲最後は、裁判官の「心証」がモノを言う。ので、ほんのわずか、紙一重のところで、勝敗が決することもある。

ぼくが起こした裁判の場合、相手は、ウソの事実をいくつも並べてきた。相手方の弁護士は、大きな仏教教団の顧問を務めているベテラン。こちらは、ズブの素人▲裁判官も、おんなじ法曹の世界なので、相手の弁護士のほうに信頼を寄せている風情。こちらには、「ふん、ド素人のクセに……」という態度がミエミエだった。

しかし、上手の手から水が漏れる。相手のウソが、露呈する瞬間がある。ウソは、かならずどこかで、瓦解する。あろうことか、証拠を偽造してきた。その偽造の痕跡が、ありありとわかったのだ。その瞬間、相手の言い分は、すべて瓦解していったと思う▲まあ、その弁護士は、弁護を引き受けた以上、勝たなくちゃいけないので、苦労したと思うが、ド素人のぼくに大敗。そして、控訴しても敗れたのだった。