過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「浅い」と「深い」

「深いことに目がいくと、もう浅いことができなくなる」でも、「深いことがわかってくると、こんどは浅いことが、おもしろくなる」(「こころと人生」河合隼雄著、創元社

河合さんのお話は、深いところまで一緒に降りてきてくれる感じがする。三年前、いちばん前の席で講演を聞いた。フルートも演奏され、照れた表情と一所懸命さが印象的だった。それは河合さんが、脳梗塞で倒れる二か月前のことだった。

かつてわたしは、いろいろな瞑想法を修得したいだとか、どこか聖地に出かけて修行したいとか、あんな指導者について……みたいな世界に惹かれたことがあった。

あれこれと体験してみて、わかってきたことがある。
どうも、特別な修行とか方法とかじゃないな。いろいろやっても自分の本質は変わらない日常の動作、ふるまい、クセをなんとかしないと意味がないんだなあ、というところだ。

近しい人とのやりとり、片づけ、料理すること、困ったときの対応、そういう日常のなかに自分の本質が出ている。そこに気づかないと、なにをやっても土台が弱い。

どこかに行かなくてもいい。いまここでできることを丁寧にやること。気づきをもって。そして、この日常の暮らしこそが、深くておもしろいと感じられるようになった。

人間、深くありたいとは思う。しかし、「浅い」ことが、決して浅くはない。深いことが、決して深いわけでもない。そもそも、浅いも深いもないのかもしれない、と。