西本願寺で真宗の朝のお勤めに出たことがある。本堂には、五百人くらいの門徒たちが集う。みな「正信偈」をきちんとよむ。お経の後では、お坊さんの説教がある。
お坊さんが話しているときに、おばあちゃんが、感極まったように、
なまんだーぶ、なんまんだぶ……
と称えていた。さすがに、真宗らしいなあとおもった。それは、おばあさんのたんなる口癖なのかもしれない。でも、なんまんだぶ、という響きが、おばあちゃんには、なんだか深いところでつながっている感じがしたのだ。
いつも底流に阿弥陀さんがいて、すくい取ってくれている。ありがたい、なんまんだぶ。あああつかれた、なんまんだぶ。そういうためいき、漏れる息、ゆるみ、おまかせ感覚のようにも感じられた。
なにをやってもだめなんだな、でも仏さんがちゃんとみてくださっている、ありがたいこっちゃ、なんまんだぶ。ふかいところで支えられている安心、ありがたい感じ。これが他力ということかなあ、他力もいいなあ、と。
いっぽう法華などは自力的だから、ちと雰囲気が違う。南無妙法蓮華経と唱えて、祈りと集中でエネルギーを高めていくことになろうか。たしかに、これは活力が出る。ためいき的ではない。ああつかれた、南無妙法蓮華経とはやりにくい。ま、それぞれちがいがあって、おもしろい。
比叡山の行法に「朝題目、夕念仏」がある。朝日の昇るとき、南無妙法蓮華経、「さあがんばるぞ」と一日のスタートをきり、夕陽の沈むとき、なんまんだぶ、「きょうも一日ありがとさん」と。そういうのもいいなあと思う。