ぎーーーす、ちょん。ぎーーーす、ちょん。草むらの中、あちこちで、鳴き声がする。
あかりをつれて、川の畔を散歩する。
──なんの音?
──キリギリスだよ。
──どこにいるの?
──草の中だよ。
──どこどこ。みたい。とってー。
というので、つかまえて、「ほらこれだよ」と目の前に見せた。
──こわくないの?
──こわくなんかないよ。
掴み方が強かったせいか、キリギリスの片脚がとれてしまった。でもそのまま、ぴょーんと草むらに跳んでいった。
……あぁ、可愛そうなことをした。
あのキリギリス。これからの暮らし、片脚ではたいへんだろうなぁ。
と、すこし胸がいたんだよ。
いきもの、いのちあるものはたいせつに。けっして害さないようにしよう。
しかしだ。自分たちに迷惑な生き物となると、憎み、排除し、つぶしてもへっちゃらなんだなぁ。可愛そうなんて思わない。
蚊がぶーんと飛んできたら、バシッと叩き潰す。ハエがきたら、ハエたたきでバシッとやる。やったー!と満足する。ゴキブリもゴキジェットで凍死すると、やったぞとなる。
キリギリスも、チョウチョも、タマムシも、みなにおんなじいきものなんだけどね。
でも、自分にとって迷惑な生き物は、つぶしても、殺してもへっちゃら。
害のない可愛らしいとおもっている生き物に対してだけ、胸がいたむということになる。
「肉食の思想」という本だったかな。こんな逸話を思い出した。
牛や豚を食べる西洋人を見て、かつて日本人が驚いた。「牛や豚を殺して食べるなんて、なんと残酷なんでしょう。わたしたちは、そんな残酷なことはできません。食べるとしたら小鳥くらいなものです」と。
それを聞いた西洋人が驚いた。
「おお、可愛らしい小鳥を食べるなんて。あなたたちは、なんと残酷なんでしょうか」。
まあ、要するに自分は身勝手なものだという自覚、気づきがあればいいのかなあと思ったり。平和だ、人権だと叫んでいても、戦争なんか起きたら、敵国の人が死ぬのを大喜びするというのも、人間のありようかなあと思ったり。