過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

気分次第で生きるか、ことばをまもって生きるか

朝、あかりが、川に行くーという。水遊びと砂遊びするという。
じゃあ行くか、と連れて行く。
川について水に足をつけたところで、いやだー、おうちかえるーという。
だって、川に行きたいといってたじゃない。
いやなのー、いやなのー!と泣き出す。
なにをどう機嫌を損ねたのか、わからない。

仕方ない。じゃあ帰るか。

帰りに公園を通る。じゃあ、ちょっと噴水あそびするか。
しゅーっと噴水の出口を指で塞いで、細かくすると、ふわあーーと。霧になって雲みたいになる。虹ができる。
こんどは、よろこんで水遊びの世界に入る。
かえる? というと、いやだー、もっといるーという。

子どもは、一貫性というものはない。瞬間瞬間、ころころと変わる。
こう言ったからこうだということはない。気が向いたから行動するだけ。気が変わったら、またそのときの気分にあったことをする。しかも、それがデジタルだ。瞬時にシフトする。ローからいきなりトップギアに入ったりする。
いくーと行ったら。気が変わらないうちに、即、いま、連れて行く。でないと、また気が変わる。

おとなになると、気分次第では生きていられない。やる気がしないからということでは、仕事の達成はない。人の信用も得られない。
おとなになるということは、「ことば」で生きるとも言えるだろうか。
こういうことを言ったので、こうするのだとして生きる。一貫性をたいせつにする。
そうして、自分の言ったことはきちんとやる人だという信用が得られていく。

いつかこうしたい、こういう夢があるということばかり語って、実行しない人は、やがて、「ああ、また言葉だけね」と相手にされなくなる。

だから、自分の発したことばを守る、というのはとてもたいせつなこと。こどはが自分を引っ張っていく。気分次第の人生から、ことばを守るという人生に。

しかしだ。気分で動くというのも、もとてもたいせつ。
ワクワクすることには、ハツラツとしたエネルギーがある。はからいがない、人を巻き込む力がある。

ことばが大切だとして、無理をして我慢して、つらい思いで実行するのも人生。
だが、自分が楽しくない、気が乗らないと、どうも空回りになる。そうして、抑圧された心が、どこかで歪んで現れたりする。自己を投影して、誰かを責めたりもする。そのあたりを、観察している。