過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

たいせつなのは、国語力。日本語の読書力。そして、作文力。会話力。なにより、自分で考える力。

英語が話せたらいいのになあ。そういう場面がよくある。もっと楽しい旅もできる、友達もできるし、仕事の可能性も広がる。

中学から習い始めて高校、そして大学でも履修科目に入っていた。でも結局、話せない。ざんねん。

英語ができれば、いい大学にいける。いわゆる「いい大学」が、いいのかわるいのか、知らない。しかし、競争は有利なほうがいいとみんな思いこむ。

なので、国語力をアップするよりも、英語力の点数稼ぎのほうが効率がいい。ということで、受験英語はちゃんとやった。難しいものはいちおう読めた。

バートランド・ラッセル、ロバート・リンド、サマーセット・モーム、ハックスレーみたいなのやつだ。現代文明がどうたらこうたら、みたいなものばかりだった。

で、受験勉強には、読解と文法はあっても「会話」はない。だから、話せない。ああ、もったいない。若い日の時間とエネルギーが。

そもそも話せないのは、その必要性がなかったから。そして、ガイコクの人と話す機会もなかったから。

ぼくが初めて外国の人と英語をつかったのは、カナダの空港にいた女の子に話しかけたときだ。どんなスポーツが好き? みたいなことを聞いたら、聞き返された。

sportsとRの発音ができないと伝わらない。マザーだって、ちゃんとmotherとthの発音ができないと、伝わらない。それでもまあ、通じるのだった。しかしネイティブの人と話には、臆することになった。

初めてインドを旅した。ヒンディー語ベンガル語など、200くらい言語があるのだ。広大なインドでは通じるのは、英語しかない。そうして、インド人も英語は不得意だ。さらに、インド人の英語は聞き取りやすかった。かれらも、Rの発音もthの発音も得意ではない。

masterは、マスタラという。thousandは、タウジャンドと発音していた。ああ、これでいいんだ。そうおもって、気持ち的にはラクに会話できるようになった。

日本の山里に暮らしていて、英語を使う必要性はまったくない。英文など、自動翻訳で瞬時に意味がとれる。また、モバイルに自動翻訳機が入って、会話も瞬時に変換してくれるようになるだろうな。

たいせつなのは、国語力。日本語の読書力。そして、作文力。会話力。なにより、自分で考える力。そう感じる。