過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【書き続けること】2026.06.19

【書き続けること】2026.06.19

飽きっぽい私が、こうして毎日文章を書き続けている。

書くネタに困ることはない。素材はいくらでもある。問題は、それをどう料理し、何を伝えるか。そのためには多少の訓練がいるけど。

書こうとするとき、結論が決まっているわけではない。ただ漠然と、「こんなことを書きたいかな」という思いがあるだけだ。

それを一人語りで5分ほどスマホにしゃべっていく。語っているうちに言葉が言葉を紡ぎ、いつの間にか、それなりのところへ着地していく。

そんなふうに、一日二本から三本は書いている。ルーティン化することで、負担にもならない。楽に書けるようになった。

達意の立派な文章を書こうとは思わない。ただ、自分の言いたいことを分かりやすく、読みやすく書くことに注意している。

気をつけているのは、概念や理屈やロジックだけで書かないことだ。

自分の「体験」であること。自分の「観察」であること。これを大切にしている。

自分の体験や観察として語るならともかく、世界情勢がどうだとか、経済や政治がどうだとか、新聞の社説のようなことを書こうとは思わない。

書くときには「場面」で展開していくのがいいと思っている。そのほうが語りやすい。

「説明」が入ると文章は重たくなる。分かりにくくなる。「概念」が入ると、自分では分かったつもりでも、本当は分かっていないので伝わらない。

文章は、何か前向きな教訓や積極的な結論、希望に満ちた方向へ導こうとしがちだ。あるいは大きな発見のようなものに結びつけようとする。

しかし、あまり安易にそういう方向へ持っていかないようにしている。そのほうが自分にとって正直だし、素直だと思うからだ。

結論は「置いてけぼり」。落語のように、「うわ、どうなるんだろう」というところでストンと落としてしまう。それ以降は読者に任せればいい。

あとは知らない。勝手に想像してくれ、と。

落語は面白いもので、「うわあ、どうなるんだろう。大丈夫かな」というところでサゲが来る。

そして「おあとがよろしいようで」となる。

その後、登場人物がどうなったのかは語られない。聴衆に任せる。

そこが落語の面白いところである。

その後のことまで丁寧に説明しない。その余白こそが落語の魅力なのだろう。

文章にも、そんな書き方があっていいのだと思っている。大きく言うと「世界との向き合い方」なのかもしれない。