過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【お任せについて】2026.6.18

【お任せについて】2026.6.18

「お任せ」と言うと、「何に対して任せるんだ」と聞く人がいる。

信仰を大切にしている人なら、阿弥陀如来にお任せするのかもしれない。あるいはイエスに、エホバに、アッラーにお任せするのかもしれない。

私はといえば、そういう絶対的な存在を持っていない。だから、信仰の対象にお任せするということはない。

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では何に任せるのか。

何が起きてもいいというか、何が起きるか分からないのだから、「やってきたものにお任せする」というところだろうか。

今こうして生きていても、苦しみや寂しさや痛みや喜びがある。それらはすべて、自分の身体や五感が受け取る刺激なのだと思う。

痛みなら痛みとして、そのときの感覚に気づく。

咳が出て絶望的になる。それはそれで、「今起きているリアルそのもの」なのだから、そのことを味わい、受け取る。

それを神仏の試練だとか、偉大な存在からのメッセージだと思うわけでもない。

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たぶん私は、死ぬ瞬間までそうした考え方は持たないと思う。

そうした存在を信じている人のほうが、安心して生きられるのだろうか。持たない人は不安なのだろうか。そのあたりはよく分からない。

私は、そうしたものを持たない。

かつては持っていた。けれども、それは自分の思い込みや、作り上げた観念の体系のようなものだった。そして捨ててしまった。

捨ててしまったから、別の何かを持とうとも思わない。

そうしたありがたいものを手放したことで、かえって自由になったような気がする。

起きてきたことに対して動く。やって来た出来事に応じて動く。

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言ってみれば、人生はピンポンのようなものだ。

一つ、玉を打ち返す。

玉がどんな角度から飛んで来るかは分からない。こちらの返球の角度も決まっているわけではない。

ただ、球が来たから打ち返す。

それだけだ。

それが人生なのかなと思っている。

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信仰を持っている人は、すべてを試練として受け止め、それが高尚な生き方なのかもしれない。

しかし最後の瞬間には、そうしたものは何もなかった、ということになるのかもしれない。

あるいは、その人が信じていた世界へ行くのかもしれない。

それはまったく分からない。