【観察しかない】2026.6.15
知性とは何だろうか。
知識ではないよね。では、知性とは何だろう。
知恵に近いのかもしれない。
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ここのところずっと映画を見ていて感じたのだが、感情的に怒ったり、威嚇したり、マウンティングを取ろうとする人には、あまり迫力がない。
むしろ効果的なのは、そういう場面でも普通に、静かに、小さな声で語ることだ。そちらのほうが迫力がある。かっこいい。力んだり怒りを表すのはかっこ悪いよね。
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思えば、仕事で頑張っていた頃は、怒りをあらわにして仕事をしていた。他の事業部に怒鳴り込みに行ったこともあったし、机をドンと叩いたこともあった。電話で怒鳴ることもよくあった。
あれは恥ずかしいことだったと思う。
周りは引いてしまうし、その人との関係性も悪くなる。
結局、「池谷はよく怒る人だ」という印象しか残らない。
その辺りが下手だったのだろう。だから人間関係もうまくいかないし、敬遠されたと思う。
そして何より、怒りは自分の身体も蝕む。腰痛がひどくなっていったのも、その影響があったと思う。
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サラリーマンを辞めてからは、そういう仕事をしなくなったので、怒るという場面は少なくなった。
人に対して怒ったり威嚇したりすることは少ない。それでもたまに怒りをあらわにすることはある。
それは、やはり格好悪い。みっともないし、恥ずかしい。そして何より相手に対して効果がない。萎縮させるし、関係性は悪化させるばかり。愚かということかな。
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だから一つの実践として、怒るべき時、怒って当然という場面でこそ、声を荒らげないようにしたいもの。
いや怒ってもいいのだが、できるだけ静かに、普通の声で表現する。
イライラした時こそ、まず自分のイライラに気づく。そして少しスローダウンする。
できるだけ静かに振る舞ってみる。
本当は20代で気づけばよかったのだろうが、73歳になってようやく気がついている。
もっとも、今は寝たきりだから、怒ること自体が少ない。
そういう仕事もしていないし、人間関係の軋轢もない。プロジェクトを組んでいるわけでもない。
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自分の身体状況に対する怒りはあるのかもしれない。怒りというのは現状に対する受け入れられないことが要因とも。
が、実はそれもあまりないかな。
昨年までは元気だったのに、今寝たきりっていうところで、病気の状態に対して、普通のなら怒りや嘆きがあってもおかしくないのかもしれない。
だが、それがさほど起きていない。
特に人格的に成長したわけでもないし、瞑想が進んでいるわけでもない。
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瞑想というよりも、徹底して観察モードに入っている。
辛さ、痛み、苦しみ、不安はもちろんある。
しかし、それらを抑えようとはしない。
身体が今どうなっているのかを観察していく。それがベースになっている。
瞑想というより観察。
瞬間瞬間を観察する。
内側から観察する。
自分の身体動作、感覚の変化、心の変化を観察する。
それがマインドフルネスなのかどうかは分からない。「観察」という言葉のほうがしっくりくる。
ブッダのヴィパッサナー瞑想というのは「よく観る、内側から観察する」ということだろう。いい悪いという価値判断は持ち込まない。ただ観察する。
よく観ていくだけ。
探求していく。
瞬間の自分を観察していく。
それが今の私のベースになっているような気がする。
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その意味では、病気というのもありがたい修行の機会とも言えるか。
逃げ場がないからね。
徹底して今の自分と付き合うしかないから。
常に自分の身体状況と向き合い続けることになる。
瞑想ではなく観察。
瞬間を観る。
客観的に自分を観る。
自分の身体を内側から観る。
身体の辛さを観察する。
自分が何を考えているかも観察する。考えの中身ではなくて、考えていることに対する観察だ。
「ああ、考えているな」と。
焦っている時には、
「ああ、焦っているな」と。
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「気づき」という言葉は、使われすぎてしっくりこない。概念化されすぎている気もする。
私には「観察」という言葉のほうが合っている。
観察することで状況が良くなるとか、快方に向かうとか、そういうことを期待しているわけではない。
そのことで良くなるとも思わない。
ただ観察するのみ。
今の私には、それしかできない。
知性とは、自分や世界を観察する力なのかもしれない。