【AIを「正解製造機」としてではなく「知の伴走者」に】2026.4.18
AIはハルシネーション(もっともらしい嘘)を起こす。「間違えるからけしからん、だから使わない」という人がいる。
その人は「百科事典」や「計算機」のように、AIを正解を出力するツールとして捉えているわけだ。
また「AIはいかにも画一的で、人間味がなくてつまらない、気持ちが悪いから使わない」という人がいる。AI に人間味を求めているということか。
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それらの考え方は、逆から見るとこういうことも言える。
「AIが間違えるのは けしからん 」という人は、正答率が格段に上がり、間違いを間違いと素直に認めるという風になると、AIを使い出すだろう、と。
「AIの表現が気持ち悪い」という人は、AIがより人間的な表現になれば使うようになるだろう。
そこには 実は AI に対する「依存」がある。依存は言い過ぎだが 「期待のかけ方」が前提としてあるんだろうと思う。
私の場合は、AIに正確性を求めてはいない。「間違えるだろう」と思っている。
「回答の根拠を示せ」と言っても、それも間違いの可能性はある、捏造もあると思っている。だから失望などはしない。
過度に期待していない。そもそもAIは間違えるし、過信できないというところに立ってAIとやり取りをしている。そして「期待していないからこそ、得られる」ともいえる。
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私はAIは「壁打ち」に使っている。
自分の思い、考え、ロジックのやり取りの相手として、自己探究のパートナーとして使っている。
AIは「鏡」や「共鳴板」としてある。自分の思考を外在化して見つめ直すのだ。
鏡=自己認識、壁打ち=思考の往復、共鳴板=感情や直感の増幅、ということになる。
AIを信用しているかどうか、正確性に対する期待値がそもそも低いのだ。知識の正確さは二の次になる。
私はやりとりの中で、自分の中での気づきや発見を大切にしている。
あるいはAIのロジックを見ている。ロジックが素晴らしいと思えば、それに対して納得する。
ハルシネーションは、たしかに「欠陥」になる。しかし、自己探究の「壁打ち」として使う場合、大した問題ではなくなる。
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AIの少しズレた回答や意外なロジックは、むしろ自分の思考を揺さぶり、固定観念を壊す「セレンディピティ(予期せぬ発見)」の種になりうる。
「それは違う」とAIに反論する過程で自分のロジックが研ぎ澄まされるなら、AIの間違いはむしろ「機能」している。
やり取りから生まれた自分の気づき、発見を大事にしている。問答を楽しんでいる。