【死んだらどうなるか】2026.4.8
死んだらどうなるか、永遠のテーマである。死後どうなるか、誰にもわからない。
死んで帰ってきた人は一人もいない。死後、はたしてどういう世界があるのか、それはわからない。
死後があるのかないのか、それすらわからない。
あるとも言えるし、ないとも言える。
「ある」という世界に立てば、天国や浄土や地獄があり、転生がある。あるいは様々な霊界やら、波動の世界がある。
喜びの人、苦しみの人、後悔の人、憎しみの人——それぞれの千差万別の波動で生きているかもしれない。
仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、様々な宗教が説き、霊能者が説き、スウェーデンボルグが説いた。人それぞれの解釈がある。
霊能者が死んだ人の波動をリーディングして、それが案外当たっていたりもすることがある。死んだ人の残存エネルギーがこの世にあるのかもしれない。本当にわからない。
何となく思うのは、この人生を満足して死んでいったなら、死後は良いのかもしれないということ。
今日一日楽しいことがあれば、ゆっくり眠れる。辛いことがあったり後悔があると、なかなか眠れない。
それと似たようなことが、あるかもしれない。
●死後のために何を準備すればいいか
では、そのためにはどうすればよいか。
感謝の波動で一日を送っていくことだろうか。
様々な人から、生き物から、大自然から、私たちは恩恵を受けて生きている。その恩恵に気づく。ありがたいと感じる。
その感謝の念を送り続けることが、その人の人生の基盤を作り、自分を守ることにつながるのだろうか。
カルマという観点から言えば、良いことをすれば心が清まる。心が清まった人生は安楽だ。善因善果、悪因悪果かもしれない。
一方、そんなものはないという考え方もある。
生前いいことをしようがしまいが。信仰があろうがなかろうが。満ち足りた人生であろうがなかろうが。
そんな条件は関係なく、すべての存在が大海のような安楽な「ワンネス」に包まれていくのかもしれない。
人生はこの世限り、死んだらそれでおしまいだ。私という存在もこの世限りだ。
あるいは、死後の世界があるとしても、私たちが想像するような霊界ではなく、まったく次元の異なる状態にシフトするので、私たちには知ることができないのだとも言える。
だから探求しても、わからない。
といって探求をやめてしまうのも勿体ない。
自分はいつか死ぬ。そのために日頃から準備しておくことは、やはり大事なのかもしれない。
●生きてるとは「この瞬間」しかない
大切なことは「生きている」とは、今この瞬間しかない、ということだ。
70年間生きてきた。それは過去の歴史としてあるが、もう終わったことだ。記憶の中のことである。これからも何年も生きるかもしれないが、それはまだ始まっていない。未来の中にある。
だから「生きている」とは、本当にこの瞬間瞬間——息を吸い、息を吐いている、その瞬間しかない。
この生きている営みに、リアルに体感すること。今を丁寧にしっかり生きること。
来世がどうの、過去世がどうと言うのではなく、今この生きている瞬間に集中する。そこに立つ。これが最も大事なのだと思う。
●キーワードは「観察と気づき」だ
では、どうすればよいか。
一つのキーワードは「観察」と「気づき」だ。
今生きていることに気づく。
生きているとは、息をしていること。吸って、吐いて、体が膨らみ、縮む。
立つ、座る、食事をする、お茶を飲む。あれこれ考える。痛い、寒い——そういった感覚が起きる。そのすべてが、生きているということだ。
この瞬間瞬間に丁寧に気づいていく。丁寧に見ていく。それが、人生を大事に生きることに繋がるのだと思う。
これを繰り返し毎日やることによって、今自分はここにいるという実感は深くなっていく。
それが、仏教でいうヴィパッサナー。ちゃんと気づいていること、である。
私がやっているのは、体を圧したり自分で擦ったりすること。その時の感覚に意識を向け、どんな風に変化していくかを観ていく。
そんな風に、この瞬間を生きる、それだけのことだ。
●結論
死後は誰にも分からない。死んで帰ってきた人はいない。だから今ここをちゃんと生きること。それに尽きる。
ちゃんと生きるには、呼吸、体の動き、心の動き。そこに気づいていること。
「自分」と「自分の体」に起きることを分けて、自分の体に起きていることに気づいていく。観察していく。
自分の体がいかに壊れていって、弱っていって、死を迎えようとしているか。
自分の病気の推移を眺めて、その着地の先を見ていく、病気から死へのコースを見ていく。そこに怖れではなく、静かな観察の眼を向けていく。