過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【①若き日の創価体験 唱題行と祈り】2026.2.7

【①若き日の創価体験 唱題行と祈り】2026.2.7


若い頃には創価の世界に身を置いていた。浪人時代から学生時代までの6年間である。
とても濃密で、激しく、時にしんどくもありながら、確実に『生きる力』を充電してもらった6年間だった。
学生時代は東京で暮らしていた。
田舎から出てきた予備校生にとって、東京での生活は孤独であり不安が大きかった。そこで出会った創価の人々はとても面倒見がよく、その親身な指導に大いに助けられた。
生活の精神的・実践的なよりどころになった。現代社会における「つながり」の希薄さを考えた時、非常に大きな意味を持つ体験だった。
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
創価はひとつの「巨大なコミュニティ」である。よく「創価家族」と表現されていた。核家族化で孤立した個人を連帯へと結びつけていたとも言える。そこが創価の強さであった。
だが、その一方で組織依存に陥りやすく、信仰から離れていく人にとっては煩わしいものともなり得る。個人を「支える」力と「包摂・掌握する」力という、表裏一体の性質があるわけだ。
組織には男子部、女子部、婦人部、壮年部という四つの組織があり、様々な人材がいた。毎週行われる定期的な座談会、頻繁な会合、そしてきめ細かな家庭訪問指導があり、創価のネットワークの中に包み込まれていった。
そこで多くのことを学び、支えられた。そうした組織の中で揉まれ、支えられてきたことは、私にとって大きな財産であった。
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
創価は他の団体や組織とは異なり、生きた信仰の集いであるから、その核には信仰がある。
一人ひとりが、朝晩、御本尊に向かって勤行し、お題目を唱えて祈るという実践が基底にある。「信仰を生きる」ということだ。
「何かあったら祈る」ことが、一人ひとりの信仰の基盤である。御本尊(日蓮が表した十界曼荼羅)に向かって拝み、祈るのだ。勤行やお題目という具体的な身体的行為に根ざしている。
聖職者に祈ってもらったり、お祓いをしてもらったりすることは一切ない。自分で祈って乗り越えていくことが基本なのだ。
苦しい時、辛い時、困った時、何かあったら「とにかく祈る」と指導される。そして会合では、「体験発表」として、祈って願いが叶えられた体験が語られる。「御本尊に祈れば、怖いものはない」というのが、創価の信仰のありようなのだ。
朝晩の時間を割き、声を出し、座り、祈り続けるという「修行」の積み重ねが、信仰の骨格となっている。
朝晩の勤行は、『法華経』の一部を読誦する。朝は1時間、夕方は30分ほどかかる。会員は一日も休まず行っている。
私も上京した頃、安アパートでお経を読みお題目を唱えていた。大きな声を出すと周囲に迷惑がかかるので、池袋の寺院に行っては、朗々と唱えていた。
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
信仰というより、一つの「実践」と言った方が適切かもしれない。
「100万遍」の題目を唱えることにも挑戦した。
私のペースでは、1万遍で約3時間かかる。方眼紙を区切って30分唱えたら赤く塗るということで、毎日の小代の数を記録していった。
「今日は何万遍、今月は何万遍。よし、このままでた百万遍はいつまでに達成するぞ」という感じで、毎日挑戦していった。
こうして予備校生の時は、1年間で200万遍のお題目を唱えたのだった。
祈りの体験が、単なる「願掛け」を超えていくプロセスを体験した。
まず、お題目を唱えていく中で、確かな身体的実感が訪れる。いわゆる「生命力」が湧いてくる。「負けないぞ」という気力が漲る。心身ともに心境が澄み渡ってくる。
これは、一つには声を出し続けることによる丹田呼吸法であり、集中瞑想でもある。
声を出すこと、唱えること、正座と合掌、そして曼荼羅に向かって集中することで、雑念が消えていく。願望の対象がありありと明確になってくる。ある種の「引き寄せの法則」でもあろう。
そして、雑念が消えることで、散漫になっていたエネルギーが集中され、身体を循環して生命力が湧く。これは、実践すれば誰でも体得できることだ。
そして、大勢の人とともに唱えることで、声の響きが共鳴し、ますます勢いがつく。そして祈りが確信に変わっていくことをよく体感した。
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
一人で深く唱えることが基本である。
最初は願望達成のために祈っていく。そして、一時間も二時間も唱えているうちに、「〇〇してください」という祈りが、「必ず達成するぞ」という確信に変わっていくことがあった。
そして、もう一つ。祈っていると、自分自身のこれまでのみっともない姿が浮かび上がり、「うわっ、恥ずかしい」「うわっ、申し訳ない」という懺悔のような心境にもなった。
お題目を唱えながら、これまでの格好悪い、醜い自分の姿が思い浮かんでは、思わず身を屈めたことがよくあった。一種の内観法のような祈りである。
こうして「何かあったら祈る」という姿勢が身についていった。そういう姿勢があれば、人生の様々な苦悩に執着しなくて済む。悩み続けなくて済む。祈ることで生命力が湧く。元気が出る。問題を乗り越えられる。そこが、創価の信仰の基軸である。
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
たくさん唱えていくと、もはや結果がどうであれ「おまかせ」という心境にもなっていくことを体験した。こうなると不思議なことに、祈りはかなりの確率で叶ったりする。
そして、何かを達成するための手段として祈りがあるのではなく、祈りそのものが素晴らしいのだ。日々の暮らしに起こる様々な悩みは、祈るための素材になっているのではないかとさえ思った。
こうして「祈る」ということの重要性を身体で体験したのであった。
この「祈りの技術」や「内観の習慣」は、組織を離れた今でも、形を変えていまの日常を支える知恵となっているのかもしれない。