過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【ある稀有な魂との交流記録】2026.2.2

【ある稀有な魂との交流記録】2026.2.2

【ある稀有な魂との交流記録】2026.2.2

清里へ行くときは、『黎明』の著者である葦原瑞穂さんのところに、よく泊めてもらった。清里の町営住宅に住んでおり、家賃は月に2,500円だと言っていた。

林の中に立つ平屋の一軒家で、小さな庭もあった。冬の寒さは厳しかったが、ブリキの薪ストーブで暖を取っていた。

燃料は、白州のウイスキー工場から譲り受けた樽を割ったものだった。それを燃やすと、暖かさと共にほのかにウイスキーの香りが漂い、何とも心地よかった。

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葦原さんは、氷点下の真冬でも半袖のTシャツ一枚で過ごしていた。出会った頃、彼は「もう20年も仕事をしていない」と言っていた。

どうやって生計を立てているのか不思議だった。それは次のようなギフトの循環という信頼と感謝で成り立つ暮らしであった。

彼は宿泊する客に心を込めた手料理を振る舞う。特にコーヒーを淹れる腕前は卓越しており、ワインと共にその道を深く探求していた。

感激した客は野菜をお土産に置いていったり、お金をお布施のように置いていったりする。

彼が東京に来る時は、私のアパートを常宿にしていた。礼として、よく私に料理を作ってくれた。

訪ねてくると、「今日は洋食がいいですか?それともイタリアン、中華はどうしましょうか」と尋ねる。私が「ではイタリアンで」と答えると、冷蔵庫にある萎びた野菜を見事に使い、素晴らしい料理に仕上げ、最後に絶品のコーヒーを淹れてくれた。

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彼はそれまでの霊的体験や精神世界的な思想を本にまとめると言って、原稿を書き上げていた。最初は「コスモテン」から出版されたが、印税の未払いでトラブルになり、やがて出版社も倒産してしまった。

その後、「太陽出版」から改めて刊行されると、それがロングセラーとなり、今もスピリチュアル界のバイブルとして読み継がれている。いつも献本していただいたのだが、「後で読もう」と思っているうちに、そのままになってしまった。

少し目を通した際、私が以前話した法華経について誤解があるように思えたので、「ここは少し違うのでは」と指摘したことがある。

法華経』のサンスクリット原文に対し、鳩摩羅什(クマラジーヴァ)の漢訳が意訳されすぎているという点についてだった。そこは天台教学の基本である「一念三千」の根幹に関わる部分でもある。まあ、スピリチュアリティという観点から見れば、大きな問題ではないが。

ある時、尺八の大家から「虚無僧尺八の本を作ってほしい」と依頼された。譜面とライブCDを制作することになり、清里のペンションを借りて、葦原さんが録音担当、私が出版担当として世に送り出したこともあった。

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彼はしばらく無名の著者として表舞台に出ないようにしていたが、やがてパワースポット巡りや講演会、スピリチュアルな集いなどに招かれるようになっていった。

徹底して生活費を切り詰めた暮らしから、印税や講演料の収入、さらに親の遺産相続なども重なり、生活に余裕が出てきたようだった。車も購入し、いよいよ対外的な活動を本格化させようという矢先、交通事故で亡くなってしまった。

この春野町の山奥にまで訪ねてきてくれたことがあったが、その時はあまりゆっくり話せなかった。まさか、それが最後の別れになるとは思いもよらなかった。

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20年間、仕事をせずとも暮らしていけたこと。類稀な料理の腕前。コーヒーを極めるような徹底した探究心。そして、一冊の本がいきなりバイブルとなるような作品を生み出す力。

「仕事をしていないけれど、この人は大丈夫だろうか」と案じる気持ちもあったし、達観した物言いに違和感を覚えないわけでもなかった。別れた奥さんや子供のことなど、世俗的な心配がなかったわけではない。

しかし、彼はまさに彼にしかできない生き方を貫いた人だった。