【文章修行】2026.1.27
学生時代、作文に挑戦したことはあるが、全くうまく書けなかった。マスコミを目指していたにもかかわらず、肝心の作文の訓練をしてこなかった。就職で大手新聞社を受けたが、当然落ちた。
当時の作文は、「頭でっかち」で生活体験に乏しかった。難しい真理をえらそうに述べようとしたり、あらかじめ結論ありきで哲学的なことを書こうとしていた。そもそも作文とは、そういう難しいことを書くものだと思い込んでいた。
頭の中の観念がぐるぐる回るだけで、身体感覚がなく、生活実感や生きている実感のない文章だった。「いったい何を言いたいのかわからない」文章。誰に向かって書いているのか定かでなく、風に向かって灰をまくようなものだった。
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文章に実感や感性が伴うようになったのは、パソコン通信「ニフティサーブ」との出会いがきっかけだった。特に「仏教フォーラム」という場で、日蓮と法華経についての語り合いに参加し、ほぼ毎日のように文章を書いていた。
それは、書く「相手」がいたからだ。
誰かが質問してくれば、その人に向かって語り、それを読んでくれる読者がいた。おかげで毎日書く習慣ができた。
文章が「思考」から「関係」へと地軸を移した。コミュニケーションとしての文章の原点となったのだ。
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国立市に住んでいた時、公民館で作家の山口文憲さんの文章講座を受講した。5回くらいで無料だった。
600字の課題を提出し、ポイントを指導していただいた。それが転機となった。
そのとき強調されたのは、次の5点だ。
①「あなたの文章を読もう」という人は誰もいない。そういう前提で書くこと。
②自慢話は書かない。自慢話は人に嫌われる。むしろ「笑っちゃうね、こいつバカだね」と思われるような文章のほうが好まれる。
③自分の失敗やダメなところを出すほうがいい。
④言いたいことは最初に出す。ドラマの「刑事コロンボ」は、いきなり殺人事件のシーンから始まる。その後で「実は女房が…」という展開になる。そのように、最初にメインのシーンをぶつける。
⑤一つの文章にたくさんのことを詰め込まない。一つのテーマに絞って深める。
この指導が、文章を書く大きなきっかけとなった。
その後、フリーランスとなってライターや編集の仕事をいただき、取材執筆や編集がメインとなった。文章を書く人生が始まった。
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この一年で目覚ましい進歩は、「AIとの出会い」である。
そのことで飛躍的に進歩したと思う。
具体的に言うと、AIに文章を読み込ませ、校正と感想を求める。感想をもらうことで、自分の文章のポイントや深め方が見えてくる。
AIを「能動的な書き手」ではなく「理想的な最初の読者」として位置づける。対話を通じて文章を磨く。いわば、最強のセルフ編集術。
さらに、半月前にiPhoneからスマホ・ケータイのPixelに機種を変えた。そのことで、音声入力の精度と速度が格段に向上した。今では、ほとんどの文章をPixelに向かって音声入力している。
病気(間質性肺炎)になったために、ほぼ寝たきりに近い。そのため、布団に寝転がったまま音声入力をしている。パソコンに向かって書き出すことは少なくなった。
音声入力は、閃きを逃さず、思考の速度でアウトプットできる。
思考の新鮮さを損なわずに、「文字の流れ」に変換できる。文章を書くハードルが低くなった。
Pixelはいわば「思考の流出路」だ。
閃いたことをしゃべり、音声入力する。その内容はパソコンと同期する。少し手直しをしてAIに校正と感想を依頼する。「なるほど」と気づかされる点があり、それをまた修正して文章に仕上げていく。客観性を即座に得られる理想的な創作サイクルとなった。
助成金の申請書や事業報告書のような固い文章も同様だ。
仕事というもののほとんどが「文章を書くこと」が必須であり、その文章は音声入力とAIによって整えられる。こうして新しい知的生産の技術が向上したと言える。
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文章は自分の体験に基づくと書きやすく、相手にも伝わりやすい。
偉い人の文章や観念だけで築かれた文章は伝わりにくい。
自分の身体感覚や経験に基づいて書くと、伝わりやすい。そしてすんなり書ける。
そんなことで、飽きずに毎日投稿することは続けているわけだ。
それは、一種の楽しみとしての修行、あるいは道楽のようなものだ。「修行」には継続と鍛錬の意志が、「道楽」には遊びと楽しみの本質がある。
文章を書く行為は実におもしろい。
「独白」から「対話」「関係性の構築」へと昇華されていく。
「自分を育てる道具」であり、同時に「誰かとつながる喜び」になっていく。