過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【心配してます がんばってね考】2026.1.24

【心配してます がんばってね考】2026.1.24

友人から見舞いの言葉をいただく。
「心配してます」「○○さんが心配してました」とか「頑張ってください」「祈ってます」などと言われる。

私は「そういう言葉はやめてほしい」といつも伝えている。
「心配です」「頑張ってね」「祈っています」という言葉は、相手にプレッシャーや重苦しさを与えてしまうことがあるのだ。私は少なくとも、それは勘弁してもらいたい。

相手は善意で言ってくれているので、それを受け取るにしても、否定するにしても「エネルギー」がいるわけだ。
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私自身、病気の人やつらい状況の人に対しては「心配している」や「頑張ってください」といった言葉をかけないようにしてきた。むしろ、できるだけ普通に会話をするように心がけてきた。

かなり重篤な状態の人に対しても、いかにも恐縮して心配そうな態度ではなく、「昨日こんなことがあってね、笑っちゃったよ」といったふうに、ごく普通に接するようにしてきた。

がんで「余命わずか」というライターの友人を見舞った時のこと。病院まで行くと、彼女は話す力もなく、息をするのが精一杯の状態だったが、意識ははっきりしていた。

私は普通に陰陽師の話や占いの話などをし、蔵王権現秘仏開張のポスターを見せたりして、彼女もそれを普通に楽しんでくれているように見えた。
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実際、私が寝たきりの病気になった時、そういう言葉をかけられると、とても気が重くなる。

特に「誰々さんが心配してたのよ」という言葉は、全く力にならない。むしろ、自分の力を奪われるような気さえする。

あるいは信仰の人たちが言う「お題目を送ります」「南無阿弥陀仏」「絶対の神がおられます」といった言葉も、私にはあまり響かない。

その人個人の人生の文脈からの自然な言い方なんだろうけれど、信仰を持っていない私としては違和感を覚える。相手の固定観念の壁がそびえていて、うっとおしくなる。

「ありがたい」とは思うようにしているが、そのことは自分が「修行」として受け止めているような感覚になる。病人なのに、あまり修行させないでほしいわけだ。

力を与えようとして言う善意の言葉が、相手に重圧を与え、かえって力を奪ってしまうことってある。それは見舞いにも力づけにもならない。

子供に対して「お母さんは心配してるのよ」とか「○○さんが心配してるわよ」と言った時、子供はかえって重い気持ちになるような気がするだろう。

私は自分の娘に「心配してる」と言ったことは一度もない。相手の背中に見えない重荷を背負わせてしまうから。

心の中では心配しているし、信頼もしている。しかし、それは口に出して言う必要はないと思っている。信頼する心で、ただ相手を見ていればいい。
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なぜ、温かいはずの言葉が力を奪うのか。受け取るこちらは、なぜ「力が削がれていく感じ」がするのか。

私のわがままなのかもしれないが、多くの当事者も同じように切実に感じているかもしれない。

その違和感は何なのだろうと、探求してみた。

「心配しています」「お大事に」と言われると、常に「自分は弱っている存在なのだ」と再認識させられる。

自分に「いたわられるべき、かわいそうな病人」というラベルが貼られたような気持ちになる。自己肯定感が下がるのかも。それが苦痛なのかなと思う。

「心配する側」と「心配される側」という役割が固定され、対等な「普通の人間」としてのつながりが分断されてしまうのが嫌なのかもしれない。温かい言葉のようでいて、関係性の主導権が相手側に移ってしまう。そこに息苦しさが生まれるのかも。

そして、相手の善意(祈りや心配)を受け取ると、こちらは「ありがとう」「おかげさまで」と、相手を安心させるためのエネルギーを使わなければならない。

病人の貴重なエネルギーを、自身の回復ではなく、周囲の感情のケアに消耗させてしまうってことにもなる。
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私が望むのは、丁重な扱いではなく、「一人の対等な友人としての日常」の関係性だ。それは「病気とは無関係な時間」を共有することだ。

私は「配慮が必要な対象」としてではなく、知的な対話ができる友人として、普通に向き合ってほしいと思うわけだ。

特別な配慮をせず、以前と変わらない温度感で接してくれることが、実は最大のリスペクト(敬意)であり、サポートなのかもしれない。もすこし探求してみる。