過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【ムドラーとマントラ】2026.1.9

【ムドラーとマントラ】2026.1.9

前作の「身体知としての曼荼羅」の続き。
今回は「身体がどのように神聖へ開かれていくか」を掘り下げてみた。

南インドで、バラモンたちの儀式を観察したことがある。
五体投地の礼拝から始まり、流れるような手と指の動き、そしてマントラ、瞑想。
その流れは、優雅で滞ることがなかった。

その所作は、どのようなイメージで行われているのだろうか。
儀礼の根源には「全身全霊で神聖なものと一体となる」という意識があるだろう。
このきわめて神聖な儀式は、日常の所作が昇華したものと思われた。
もともとはインドの「迎賓(もてなし)の所作」に源があると見立ててみた。
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宗教的な儀式では、目に見えない女神をお迎えする儀式となる。
神(女神)をお迎えする際、まずは部屋を清め、香を焚き、花を飾る。
女神が到来されると、五体投地で礼拝する。
そして女神の足を捧げ持ち、水で洗い、香油を塗る。
それら一つひとつが、一連の物語として連続した印(ムドラー)として表される。

インドでは、高貴な来客に対しては「パタ(御足)・プージャ(礼拝)」という儀式がある。
丁寧に賓客の足を洗い香油を塗ることが、最高のもてなしとされる。
香油を塗るのは、キリスト教圏の行為にも通じる。
日本の感覚では、ベタついて気持ちが悪いと感じるかもしれない。
しかし、砂漠地帯では砂漠は乾燥して風も強い。足が乾燥してカサカサになってひび割れる。そこで油が必要なのだ。

そうとらえてみると、流れがよく理解できた。
それは日常的な行為が、神聖な儀礼へと昇華される過程である。
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土地の風土や生活の必要から生まれ、やがて神聖化されていく。
それが、仏教の三密(身・口・意)にまでつながっていく。
「三密」とは、観想(意密、イメージ)、マントラ(口密)、ムドラー(身密)の三つ。
心に神仏を観想し、口で神仏のマントラを唱え、手で神仏の印を結ぶ(印相)。

「三密」は「迎賓」という具体的で切実な行為の連なりとしてみることができようか。
バラモン儀礼も、仏教の「三密」も、全てが「神聖なる客人をいかにして迎え、もてなし、一体となるか」という一つの根源的な行為の現れとみることができるのではないか。
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真言マントラ)はどうだろう。
神の名を唱えることで、神のエネルギーが自分に下りてくると考えられている。それがマントラだ。

「オーム・ナマ・シヴァーヤ」(シヴァ神に帰依します)「ハレ・クリシュナ」(クリシュナ神に栄光あれ)「オーム・シャンティ」(安らかであれ)など膨大なマントラがある。

マントラは意味というよりも、発音の響き、振動が大切なのだろう。これはともに唱えてみれば体感されるもの。
そして、マントラは大地に響く振動のようなものと感じられた。
イスラムの祈りなどは、天に響かせるような感じであるが、インドのそれは地に響く。

マントラを唱えるのは、神のエネルギーと共振し、神の特性をダウンロードするようなもの。
それは単なる呪文の繰り返しではなく、特定の周波数への同調・共振ともいえる。

全身全霊で「聖なるもの」を迎え入れ、一体になろうとする切実な願い
──それらが重なり合い、やがて神聖な物語へと結晶化していく。
身体感覚・風土・生活の必然から宗教が生まれ、洗練され、体系化されていく過程がすこしつかめたように思った。