【債権者総会 悲喜こもごも】2026.1.5
債権者集会に出たことがある。自費出版大手の会社の自己破産に伴う集会だった。
場所は霞が関の弁護士会館。そこには債権者が500人ほど集まっていた。
債権者のほとんどは、自分の本を出したいという思いで、200万円から300万円を支払った人たちだ。
前金を払ったものの、結局本は出版されず、会社は倒産した。著者たちはお金だけを損していた。
私も債権者の一人であった。私は下請けとして、編集とデザインの費用が未払いだった。とはいうものの、大した金額ではない。
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債権者集会では弁護士が司会をし、議事を取り仕切っていた。
自己破産した社長は弁護士の隣で、青い顔をしてうつむいているだけだった。
何か一言でも発しようとすれば、「どうしてくれるんだ!金を返せ!」と総攻撃を受ける。だからひたすら黙っている。泣きそうな様子も見せていた。
弁護士が取り仕切る弁護士会館なので、債権者がいくら怒鳴って攻撃しても、弁護士は自分事ではないから平然としていた。「はい、次の人。はい、次の人」と処理を進めていく。
「さすがだな。こうやって債権者集会を乗り切る方法があるのか」と妙に感心した。
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多くの人は「金を返せ」と言うものだった。しかし、ないものは返せない。
手書きの原稿が戻ってこない人もいた。
「金はいらない。もう諦めた。でも、せっかく書いた原稿を返してほしい」と言う人もいた。70代の男性だ。
「愛する亡き妻のことを書いた原稿なんだ。どうしてくれるんだ。なんとしても原稿を返してほしい」と泣きながら、痛切に訴えていた。
ここで失われたのは単なる「商品」ではなく、愛する者への思い出であり、時間であり、アイデンティティの一部だ。「人生の収穫」を奪う残酷なものだ。その喪失感は、金額に換算できない深い悲しみがある。
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この債権者集会は、いろいろな立場の人がいて、それぞれの悲しみと怒りの質が違う。
著者:金銭的損失に加え、創作そのもの(原稿)を失った喪失感。
下請け:金銭的損失。仕事の対価が消えた現実。
弁護士:第三者の立場。感情を排した手続きの執行者。
社長:全ての原因であり、かつ自らも破綻した「加害者兼被害者」。無力でうつむくしかない。
人間観察が好きな私は、それぞれの立場の人たちを観察していた。
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私は、DTPをやっている友人と一緒にいた。
その友人はたまたま、「原稿を返せ」と訴えていた人の原稿を持っていた。
泣き叫んでいるその人のところに行って、「ああ、その原稿なら私が持っています。ご安心ください」と言う。
その方は呆然とした顔をしていた。「わあ、よかった、嬉しい」という顔ではなく、呆然として、喜んでいいのか安心していいのかわからないような表情だった。
原稿が見つかり、問題が「解決」されたはずなのに、その方は「喜び」よりも「呆然」とした。
これから始まるドラマを精一杯生きようとしている時、いきなり梯子を外されたような顔をしていた。
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せっかく怒りの矛先に向けて、怒りと悲しみのエネルギーを噴出しようとしている。そんな時に、いきなり怒りの原因を解決されたので、その感情のエネルギーが収まらなかったのかもしれない。
亡き妻とともに、もっと怒り、悲しみたかったのかもしれない。
理不尽な被害を受けたとき、人は「怒る権利」「悲しむ権利」を強く握りしめている。
それは、自分が受けた痛みを正当化し、自分という存在を再確認するための、唯一の拠り所になるのかも。
「私はこんな目に遭った不幸な被害者だ」という物語に没入することで、失われたもの(お金、時間、思い出、夢)を、少しでも意味づけようとしている。
怒りや悲しみは、その物語を燃やす燃料だ。
だからこそ、突然その燃料を奪われると——たとえそれが「解決」であるはずなのに——呆然としてしまう。
怒りの矛先がなくなった瞬間、自分が立っていた地面が崩れるような感覚に襲われるのかもしれない。
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友人の優しい行為が、その方の「悲しむ時間」を奪ってしまったという皮肉。
人は時に、たとえ苦痛であっても、自分に降りかかった「物語」(「理不尽な被害者」としての悲劇)に没入し、その感情そのものに居場所を見いだしてしまうことがある。その流れを突然断ち切られることは、一種の喪失でもあるか。
友人の「ご安心ください」という優しい行為が、皮肉にもその方の「怒り悲しむ権利」を奪い、一種の虚無を突きつけたのかもしれない。
物理的な原稿の返還(解決)よりも、その人が「どれだけ妻を愛していたか」「どれだけ理不尽に耐えたか」を叫び切ること(決着)の方が、その瞬間のその人にとっては重要だったのかも。
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人間というものは、悲しみや怒りを感じている時、その原因がなくなっても、怒りや悲しみに執着することがある。
──さあ怒るぞ、私は徹底して悲劇の主人公だ。こんな理不尽な目に遭った。許されるべきではない。
せっかくそういうエネルギーが動き出しているのに、その燃料である薪を持ち去られたようなものなのだろうか。
相手が必死に築こうとしていた「感情の決着(物語)」を奪ってしまったのかも。
悲劇の中にいる当事者にとって、その悲劇は自分を定義する「舞台」そのもの。
友人の親切が、意図せずその舞台の幕を強制的に下ろしてしまった。その時の「置いてけぼり感」が、呆気にとせれた体験者の表情だったろう。
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解決が必ずしも救いになるとは限らない。
人間は「感情を出し切ること」で次のステップに行くのかもしれない、そなにことも考えた。
「いませっかく慟哭して怒りに燃えているんだから、このシーンを奪わないでくれ。もっと味わわせてくれ、表現させてくれ」という感じもした。
この債権者集会は、単なる「お金の話」ではなく、人間が「喪失」とどう向き合うか、「物語」をどう生きるか、という根源的な問いを投げかけていたようにも思う。