過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【話している本人がいない、相手もいない】2026.1.5

【話している本人がいない、相手もいない】2026.1.5

誰もが陥りやすいコミュニケーションの罠がある。

時として「目の前の生身の人間」ではなく、「頭の中の観客」に向かって話してしまうことがある。

それは「対話」ではなく、「抽象的な存在(社会、権力、理想)への語りかけ」へとすり替わっているのだ。
ネット上の議論やSNSを見ても、この傾向は見られる。

言葉が通じないのではなく、通じるべき相手がそもそも設定されていない空虚さ。
その結果、話す側も聞く側も、その場から「いなくなる」。

これは「真に誰かに向き合い、言葉を届けるとはどういうことか」という根源的な問いでもある。
-----------------
話していると、いつしか演説口調になる友人がいる。

御茶ノ水の立ち飲み屋で語り合ったときもそうだった。
彼はいつも論説のような、イデオロギーを展開する。いつしか、時代や行政、権力といった得体の知れないもの、不特定多数の存在を仮想し、そこに向かって話し始める。

演説調で一人盛り上がり、私はまたいつものことだと、これは私に向けた話ではないと悟り、内容を聞かなくなる。彼は自分が想定した権力や社会に対して語っている。そんなものはここにはいない。
少なくとも私に向けられてはいない。
「こいつは誰に向けて話しているのか?」と私は思う。

いないものに向かって言葉を発する。彼の自己満足は、虚しく言葉だけを宙に舞わせる。
私に向かっている形をとりながら、目の前にいない存在に語りかけている。

店のマスターは、その様子を少し悲しそうな顔で、無言で見つめていた。
お客さんだから注意できない、しない。
ただ悲しそうな表情を向けていた。

語る本人は自己満足の中にいて気づかない。
聞く側は諦めて離脱している。

その光景を横から見ているマスターが、言葉の「虚しさ」を最も敏感に感じ取っている。
あの虚しそうで悲しそうな表情を、今でも思い出す。
-----------------
この間訪ねてきた友人も、同じような調子で話すことが多い。
行政はこうすべきだ、国はこうでなくてはならない、林野政策は正しくあるべきだ…。

聞いている私は行政でも国でもない。
私に向けて話しているようで、彼の心の中には私がいない。

自分に向けられた話ではないので、私は聞いていない。聞いていても、自分がどこかへ行ってしまったような感覚になる。
話は素通りする。語る本人も、そこに自分がいなくなる。
自分がいなくて、相手もいない。ただ話だけが宙に舞う。

「相手がいるのだから、相手の心に向かって話さないと伝わらないよ。相手に話が届かないと、相手は自分がどこかへ行ってしまう。いなくなった人に向かって話し続けると、そのうち自分も相手も本当にいなくなってしまう。言葉だけが宙に浮かぶことになるよ」
私はそう伝えた。
-----------------
相手の心に届かない言葉は、結局自分自身をも空虚にしてしまう。
言葉は本来、自分という地点から相手という地点へ架ける「橋」のはずだ。しかし、イデオロギーや正論、「べき論」に終始するとき、橋の両端にいるはずの人間が消えてしまう。

自分を振り返っても、そういうコミュニケーションをしていた時代があった。相手に届かない言葉を発していたことがあった。恋愛のときでさえ、そんなことがあったなあと、痛く反省する。

どうしてそうなるのか。

目の前の相手と向き合うのが「怖い」とき、無意識に「大きな主語(国、社会、正論)」に逃げ込んでしまうのかもしれない。生身の人間と向き合えば傷つくかもしれないが、抽象的な存在を相手にしていれば、自分が傷つくことはないから。

イデオロギーや大きな話に熱弁する人ほど、実は生身の相手との生々しいやりとりを避けているのかもしれないのだ。

根っこは同じ「相手の不在」なんだ。「それは自分の不在」でもある。
-----------------
振り返るとそんな自分がいたなあと思い返す。
「じゃあ今はどうなんだ?」
そう言われると、そのクセはまだ残っているなあ。自信はない。

クセというのか、自分の心の深い部分に触れたがらない、そこから逃げている自分があるようだ。探求は続く。