【過去のカルマの受容】2026.1.1
「アングリマーラよ、よく耐えなさい。多くの血を流したその行為の結果を、今、汝は苦しみと悲嘆として経験しているのだ。
過去の悪業(kamma)の結果(vipāka)として、今の苦しみが訪れている。
忍耐(titikkhā)をもってそれを受け入れなさい。耐えよ、婆羅門よ! お前は今ここで、地獄で何年、何百年、何千年も苦しむはずの業の結果を経験しているのだ。」
(『中部経典』(Majjhima Nikāya)第86経『アングリマーラ経』(Aṅgulimāla Sutta))
殺人者として恐れられたアングリマーラは、ブッダを殺そうと付け狙う。
ブッダは悠々と歩いている。しかし、彼がいくら足早に走ってもブッダには追いつけない。
そこで、「沙門よ、止まれ」とブッダに言う。
ブッダは答える。「わたしは止まっている。そなたこそ止まるがいい」と。
アングリマーラは、この言葉の意味が理解できなかった。
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ブッダの心は妄想することなく目覚めており、思考は常に止まっている。感官を制御し、貪・瞋・痴の煩悩は止まっている。
しかし、アングリマーラは、思考と感官に振り回され、絶えず動き回っている。動かされているのである。
ブッダは心の妄想と貪・瞋・痴を止めており、アングリマーラは感官の欲や怒りに駆られて「動いている」。
これは、私たち誰もが内に持つ「追いつけない焦燥感」(ブッダに追いつけない足)と「止まれない妄動」(感官に駆られる心)を示しているのかもしれない。
アングリマーラは「気づきによって妄想を断ち、感官を制御せよ」というブッダの言葉に納得し、仏弟子となる。
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仏弟子となった彼は、毎朝托鉢に出る。
しかし、かつて殺人鬼として村人に恐れられていたため、たとえ仏弟子になっても人々は許さない。
多くの人々から石を投げられ、棒で殴られ、暴行を受けた。
冒頭のブッダの言葉は、そんな彼を諭すものであった。
なお、迫害はその後も続き、業の残りはこの世で受けなければならないとされている。
この話は原始仏教の重要なエピソードを伝えている。
すなわち、多くの人を殺し、ブッダをも殺そうとした悪人でも、改心して修行に入れば悟りは可能であるということ。
しかし、その根性と過去世の業(カルマ)の果報は避けられない。行為の結果は逃れられないことを示す。ただ、今生でそれを軽減することは可能だということを示している。それは、物理的に軽減されるのか、それとも受け取り方によって軽減されていくのかはわからない。
心の持ちようが変われば、それが単なる「罰」ではなく「清算」となり、さらには「修行の糧」にもなり得るということかもしれない。
これがどこまで史実かはわからない。
しかし、ひとつの象徴的な物語として印象深い。
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「眠れない者には夜は長く、疲れた者には一里の道は遠い。真理を知らない愚者には、生死の輪廻の道のりは長い」(ダンマパダ60)
相変わらず、新年早々、眠れなかった。眠れない者には夜は長い。しかも、たくさんの悪夢を見る。まあ、悪夢を見るということは、それでも眠れている証拠だと自分に言い聞かせているのだが。
ともあれ、「これもまた、カルマの報いか」と感じるスタートであった。
こうした「眠れない」という日常の小さな苦しみが、より深い人生の「修行」の文脈に位置づけられるかもしれない。
この人生を「カルマの報い」としてしっかりと受け止め、味わうところから始めよう。新年早々の納得だ。
多くの新年の挨拶が「新たな始まり」「目標設定」を謳うが、私の場合は「受け入れて味わう」という姿勢になる。