【盲人の親子の乞食 無執着の布施】2025.12.2
列車に乗ると、雑踏の車内から寂しげな女の歌が聞こえてきた。
声の主は30代くらいだろうか。次第に声が近づいてくる。
その女は目が見えないようだ。6歳くらいの女の子が手を引いている。その女の娘だろう。
インドではこういう光景は珍しくはない。いちいち物乞いに回ってくる者の相手にしていたらキリがない。だから「無視するのが一番」と思っていた。
ところがその子は、私が外国人旅行者だと見るや否や、目の前でお母さんの手を掴んで胸のあたりまで差し出してきた。二度三度と胸に突きつけてくる。それでも無視していた。
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すると、今度は女の子が屈んで私の膝に額をぐっと擦り付けてきた。
物理的・心理的距離を一気に潰してくる。
「無視」という選択肢を奪う、圧倒的な現実の力だ。
仕方なく小銭をあげた。
すると渡すやいなや受け取った瞬間、少女はさっと離れていった。「もう完了」という素っ気ない場面転換。「ありがとう」の言葉も、感謝の笑顔も一切なし。
「空白」と「無反応」。善行には感謝が伴うという日常的な倫理観が瓦解する瞬間。
通常の「施し→感謝」という取引的な図式が、ここでは完全に欠落していた。
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そのとき、ふと思った。
「私たち貧しい者がいるおかげで、あなたたちは布施ができる。そのことで功徳を積める。だからありがたいと思ってるのは、私たちじゃなくてあなたたちの方なんですよ」
——そういう考え方もあるんだろうな、と。
インドに根ざしたダーナ(布施)の思想だ。それをきわめて具体的な形で突きつけられた瞬間だった。
施す側と施される側の関係性が逆転し、施される側が「機会を与える恩恵者」となる。
施しは、布施をする自分の精神に向けられているわけだ。
それまでは知識として知っていた。が、目の前の少女の無表情な「完了」を通じて「体感」するのでは、決定的な違いがあった。
同時に強く感じたことがあった。
感謝を期待したり、「ありがとう」と言ってほしいと思って布施をするのではない。完全に手放して、執着ゼロで差し出す。そういう境地になってなかったんだと、初めて気づいた瞬間だった。
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ここに登場するのは、盲人の母、少女、そして私だけ。
しかしその背後には「ダーナの思想」や「布施の哲学」という巨大な文化的コンテクストがある。
一つの「出会い」が、表面的な憐れみや同情の次元を超えて、文化の深層にある思想と対話する。最終的には自己の精神のありようの気づきへもっていかれる。
はじめてのインド、はじめて列車に乗ったときの鮮烈な体験であった。