【⑥マザー・テレサ訪問記】2025.12.2
マザー・テレサについて、インド人はどう思っているのか。
インドのベンガル地方出身の女性に聞いてみた。
すると、「あの人は偽善者だ」という答えが返ってきた。
「世界から寄せられた多額の寄付金を医療設備などに充てることなく、すべてバチカンに寄付してしまった。そして、そのことで聖人の認定を得たのだ」と彼女は言う。
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マザーの生涯は、インドで最も貧しく虐げられた人々に捧げられた。貧困の象徴とも言えるカルカッタで、マザーは路上で行き倒れている人々を引き取り、介抱した。たった一人のために、その人に全身の愛を注ぐ。
「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後には大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らが、それまで味わえなかった愛を、最高の形で与えたい」と。
また、「主よ、あなたの平和をもたらす道具として私をお使いください。憎しみのあるところに愛を、不当な扱いのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を」と祈った。
まさに、聖フランシスコの祈りの言葉のようである。
マザー・テレサは聖者の域に達していると思われた。しかし、実際にインドでどれほどの尊敬を集めているのか。それを聞いてみたかった。ところが「偽善者」だと言われたのだった。
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実際、マザーはただ一つの病院も診療所も建てなかった。
マザーが設立したのは修道会「神の愛の宣教者会」や「死を待つ人の家」などだが、いずれもインド政府が貸与した施設である。
「死を待つ人の家」はヒンドゥー教のカーリー寺院の一角を借りている。マザーの施設は概して不衛生で設備が整っておらず、最新の医療設備もなかった。
マザーに寄せられた莫大な寄付金があれば、多くの病院や診療所が建てられ、多くの人が病から救われたかもしれない。確かに、その指摘には一理ある。
マザーはこう語っている。
「私は大規模なやり方には反対です。大切なのは一人ひとりの個人です。愛を伝えるには、一人の人間として相手に接しなければなりません。『一人ひとりの触れ合い』こそが、何よりも大切なのです」。
マザーは社会奉仕活動や生活改善事業を行っていたわけではない。愛の尊さを自らの〈いのち〉をかけて実践していた。イエスが伝えた愛の教えの「形」を、インドの地で示したのだと思う。
しかし、地元のインド人の批判にも、なるほどと感じたのだった。
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ノーベル平和賞やインドの最高勲章バーラト・ラトナを受け、国葬で送られた事実は、マザーの功績がインド社会に深く根付いていた証拠でもある。
しかし、マザーの活動は「貧困の美化」を助長し、植民地主義的な視線——「白人の救世主」がインドの貧しさを世界に売り込むような側面があったとも言われる。「布教の隠れ蓑」と非難さえもある。赤ちゃん売買疑惑(2018年)のようなスキャンダルもあった。
キリスト教(カトリック)の「聖者」認定という「外部」の制度への違和感。
莫大な資金が「現地」のインフラ改善ではなく、「バチカン」という外部の宗教的中心へ還流したことへの疑念。
マザーは象徴的な存在だった。イエスの愛を「演じる」ことで、世界に「型」を示した。それは宗教的には極めて重要だ。
しかし、実際に苦しんでいるインド人にとって、象徴や型よりも、清潔な病院、訓練された医師、適切な医療設備の方が必要だったかもしれない。
ここには霊的救済と物理的救済の優先順位という、古くて新しい問いがある。
どちらが正しいのか難しい。わからない。