過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【②なにが好きなのかわからない時代】2025.11.14

【②なにが好きなのかわからない時代】2025.11.14

うーむ。自分はいったい何をしたいのか、それがわからなかった。

何でもできそうな気はするのに、結局、どれも本当にやりたいことではなかった。
そして、自分はインドや宗教、仏教が好きなのだと改めて確認した。

インドのブッダガヤを旅しているとき、チベット仏教の僧侶から「今ここで出家しなさい」と言われた。
臨済宗の国際禅道場で座禅をしているときも、「出家しないか」と声をかけられた。
諏訪湖の近くに空き寺があるので、出家すれば譲ると言われたこともある。修行(資格取得のため)は成田山を紹介され、「生徒一人に先生が三人つく」と言われた。

「仕事は仏教そのもの、給与は40万円」

という求人広告を見て応募したら、即採用された。頭を剃り、袈裟を着用する話も進んだ。しかし、何かピンと来ず、辞退した。後でそれが霊視・霊感商法の宗教法人(妙覚寺)だとわかった。

────とまあ、あれこれ迷い続ける中、朝日新聞の一行広告を見つけた。

「仏教・神道の好きな人募集」

という求人案内。

このたった一行の広告が、「縁の糸」として人生を紡ぎ始める瞬間だった。彷徨いの中で、内面の「好き」という羅針盤が働き、やがてそれをキャッチしたようだ。

仏教書の編集プロダクションT企画に入社した。社長と専務は、元学生運動(ブント:共産主義者同盟)の闘志。社員は5名。

そこで「空海」の映画制作や、寺向けの本の作り方、企画の立て方、雑誌の取材と編集の手法を学んだ。

いきなり任されたのが「勧募文例集」(国書刊行会)の制作。お寺が檀家に寄付を依頼する時の模範文例集だ。600文例作った。一冊29,800円が3,000部売れた。

空海」の映画制作のときなどは、脚本のチェックから、帝国ホテルでのお坊さんの決起大会の司会、中国人監督とのロケハンまでやった。

いま思うと、とてもおもしろかったな。給料は安かったけれど、経験とワザを身につけることができた。安い給料と引き換えに得た「経験とワザ」の価値は、その後のフリーランスとしての生きる術の根幹をなした。

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あまりの給与の安さとか人間関係とかもあって、企画会社の在籍は一年だけだった。

その後、フリーランスになった。

といって、先の見込みはない。

「さあ、何をして食っていこうか」と考えあぐねていたとき、国書刊行会から「神秘大学」という講座の企画を依頼された。

空海の映画の縁で、唐泉寺からは「寺の新聞を発行したいので、やってくれないか」と声がかかり、新聞作りを始めた。半年で、喧嘩してやめてしまったが。

すると今度は、国士舘大学から同窓会新聞の制作を依頼された。年に2回の発行なので、あとは自由だった。東京都の労働新聞のデザインもやった。国士舘大学のスポーツ新聞部の立ち上げと学生記者の養成の仕事もやった。楽しかったな。

しかし暇ができれば、再びインドへ旅を続けた。

やがて、貯金も底をつき、家賃も払えなくなってきた。いよいよ「腰を据えて仕事するぞ」と決意した。

とはいうものの、何をしたらいいのかわからない。そんな時期が一年余り続いた。

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そして、カルカッタの空港で出会ったひろさちやさんとスマナサーラ長老の対談を企画したことがきっかけで、ついに編集者としての人生が始まったのだ。

彷徨い続けた道が、結果として、「仏教への関心」と「大企業で培った雑多なスキル」、「何事にも飛び込む行動力」を統合する「編集」という仕事に流れ着いたともいえる。なにより仏教への強い関心が、「編集」という器に収まっていった。

まあ、人生に無駄な経験はなく、すべてが次のステップの土台となるということかなあと思っている。