過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑫スマナサーラ長老外伝:ひろさちやとの対談】2025.11.13

【⑫スマナサーラ長老外伝:ひろさちやとの対談】2025.11.13

対談の核心は、「ブッダの教えとは何か」「ブッダは信仰を説いたのか」「信仰か、実践か」という点にあった。

ひろさんは浄土教を基盤とする立場から、「ブッダは信仰を説いた」という自説を譲らなかった。
一方、長老は「ブッダの教えは信仰ではない。宗教ですらない。根拠のないものを信じる『信』ではない」という立場を貫いた。

ひろさんが「大乗仏教は信仰である。ブッダは信仰を説いている」と主張するに対し、長老は一切譲歩せず、両者の議論は相容れず平行線を辿った。議論は全く噛み合わないまま、この点をめぐって激しくぶつかり合うこととなった。

ひろさんがブッダが信仰を説いた根拠としてパーリ語の仏典を提示する。するとスマナサーラ長老はそれをほぼ暗誦しており、パーリ語で朗々と誦してみせ、「この経典の真意はこうであり、信仰を説いているのではありません」と示した。

ひろさんはことごとく論破される形となった。

東大でインド哲学を学び、著名な作家として名を馳せてきたひろさんが、無名のスリランカ人僧侶に軽々と論破されるのは、さぞ忸怩たる思いであっただろう。

喩えが適切ではないかもしれないが、ひろさんはヘビをアオダイショウと思って蹴ろうとしたが、実はそれはコブラだった——そんな印象を受ける場面であった。

司会進行を務める私にとって、これは困難を極める状況だった。ひろさんは答えに窮すると、「司会がダメなんだ」と私をたしなめることもあり、なかなか厳しい役回りであった。

まあしかし、この「噛み合わなさ」こそが、対談の醍醐味と思うことにした。

ブッダは根拠のないものを信じるな。依存するなという教えを説いた。『エーヒパッシカ』(ehipassika)――『ここに来て実践してみなさい。自分で事実を確認できる』というところだ。

自分で実際にやってみて身体で確認すればわかる。それは信仰ではない。「確信」に近い。信仰は自分で確認したことのないものを信じるわけだから、依存である。仏教はそこから脱する道を説いた、というのがスマナサーラ長老の立場である。(次号)