過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑨スマナサーラ長老外伝:出版と実修】2025.11.13

【⑨スマナサーラ長老外伝:出版と実修】2025.11.13

会員が次第に増えたため、鈴木一生さんは1994年、千駄ヶ谷にアパートを借り、「テーラワーダ協会」(任意団体)の拠点とした。

長老は「テーラワーダ協会」という名称に、ある種の党派性(大衆部と上座部のような対立)を連想させるとして、あまり好ましく思っていなかったようだ。その後、2003年に「日本テーラワーダ仏教協会」として宗教法人化されることとなる。

鈴木さんは毎月、長老の講演会を企画し、その内容を基に自費出版の冊子を作成していった。やがて、大手出版社の編集者である友人Nさんをスカウトし、長老の本の制作を専属で担当させた。

Nさん自身は仏教に特別な関心があったわけではなかったが、長老の法話には興味を示し、熱心に制作に取り組んだ。ただし、鈴木さんとNさんが原稿の読み合わせなどをどこまで行ったのかは定かではない。

これらの冊子が基になり、国書刊行会大法輪閣などから商業出版されるようになっていった。

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長老は1980年代から90年代にかけて、荒川区南千住三丁目の三輪地区のアパートに住んでいた。そこは下町で人情味あふれる地域であり、銭湯に通ったり大衆食堂に出かけたりした。

祭のときには「御輿を担ごう」と誘われたこともあるという(もちろん担がなかったが)。地元の人々と自由に交流できたため、その暮らしは長老も気に入っていたようだ。

やがて「テーラワーダ協会」は目白のマンションを借り、活動を本格化させた。長老の法話は好評で、冊子も人気を博し、会員数は増加の一途をたどった。

やがて「都内に精舎(お寺)を作ろう」という話が持ち上がり、お布施を募ったところ1億数千万円が集まった。2005年には幡ヶ谷にゴータミー精舎が建立されることとなった。

この成長のスピードと規模は、長老の法話の「求心力」の強さを物語っている。

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私が主催する「アートエナジー」というセミナーでは、毎月、長老にヴィパッサナー瞑想の指導をお願いしていた。

大洋村からはるばる来ていただき、宿泊先は私のアパートの二階や、友人のサニヤシン(Oshoの弟子)の家などであった。友人の部屋にはOshoの写真がいくつも飾られており、長老は「いたるところにOshoがいますね」と冗談を言っていた。

冬の日に一緒に国立の通りを散歩すると、「池谷さん、どうして日陰ばかりを歩くんですか。日向を歩いてください。私は南国出身でしかも老人なんですから」と叱られたものだ。老人と言っても、長老は当時50代であった。

すかいらーく」などに入ると、子どもたちは長老の姿に目を丸くしてじっと見つめた。目と目が合い、子供たちとの楽しそうなやりとりが始まる。長老の子供やお年寄りとの交流は、そばで見ていて心が和むものだった。

また我が家に来られたときなどは、いろいろ珍しい楽器などを手にしてよく観察しておられた。分解しては組み立てたりして、その仕組みを理解するのが好きなようであった。

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ヴィパッサナーの実修は、午前中に講義、午後に坐る瞑想や歩く瞑想などを行った。最初に講義を持ってくると、概念的な質問(「無我とはなんですか?」「スリランカの悪魔払いとは?」など)が多くなる傾向にあった。

そこで、午前中を実修、午後を講義とすると、体験を踏まえた質問が次々と出て、より現実味のある内容となった。

概して、男性は理論的なものを好み、女性は感覚的な気付きを好む傾向があることがよくわかった。

また、学問的に仏教を学ぼうとする人は、瞑想の体験も概念的になりがちで、進みが遅いように感じられた。

一方、仏教知識のない身体系の人たち──ダンサー、カイロプラクター、ヨーガ指導者、鍼灸師、ミュージシャンなどは、体得が早かったように思う。

この外伝は、「生きた仏法」がどのように一人の人間を通じて現れ、また様々な背景を持つ人々に受け入れられ、体得されていったのかを綴っていくことになる。それは「仏法が日本に上陸し、展開するドラマ」でもあるとも思う。(続く)