【⑧スマナサーラ長老外伝:再来日から大洋村】2025.11.12
スマナサーラ長老は駒澤大学の博士課程への道を諦めた。
そして日本に住み続ける選択も断ち、スリランカに帰国することにした。
「スリランカに戻れば、国立大学で教職に就く道はある。しかし、日本仏教の専門家のような立場になると、日本仏教や道元禅師を広報するような仕事になってしまう。それは面白くない。
もっと自由にブッダの教えを説いていきたい。せっかく日本に来たのだから、日本でブッダの教えを伝えたい。だが、はたして教えを理解してくれる人はいるだろうか……。生活の費用はどうしようか」
察するにおそらく、そんな悩みや葛藤もあったことだろう。
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そしてスリランカに帰国したから、竹田倫子さんが「ぜひスマナサーラ長老に日本で活躍していただきたい」とスポンサーとなり、再来日を願い出た。
竹田さんはスリランカにお寺を寄進したように記憶している。
ちょうどその頃、鈴木一生さんは金田道迹さんとの関係がうまくいかなくなっていた。一生さんは以前、仏法学舎で長老の説法を聞き、金田先生との問答を通じて、スマナサーラ長老の卓越した力量を理解していた。そこで一生さんは、長老の滞在を支援するため、マンションの費用を提供した。
一生さんはゴルフ場の会員権販売会社を経営しており、一生さんは代々木に「テーラーバード」という会社を設立し、従業員は5〜6名ほどだった。
日本経済のバブル期(1986〜1991年頃)で、ゴルフ会員権もその象徴的な「バブル商品」の一つ。特に末期は、資産バブルがピークを迎え、会員権価格が天井知らずに跳ね上がった。小金井カントリー倶楽部(東京都小平市、1937年開場)は、この時代に日本最高額の会員権を誇る名門クラブとして知られ、4億円を超える異常な相場を記録した。
スマナサーラ長老には毎週そこで社員研修を依頼し、その謝礼が長老の生活費の足しになった。
また竹田さんは、スマナサーラ長老の講座や講演会を企画し、次第に参加者も増えていった。
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長老が落ち着いて滞在できる場所を確保しようと、本格的な住まい探しが始まった。当初は都内を探したが、地価が高かったため、茨城県の大洋村に土地と建物を購入。「浄心庵」と名付け、上座仏教修道会を設立した。
私が訪れた当時、最寄り駅は無人駅で、周辺は農地付きの別荘地だったが、あちこちに空き家が目立ち、野犬が数匹群れをなしていた。
そこにスマナサーラ長老が住まうことになった。当時は長老もまだ無名で、講演の依頼が頻繁にあるわけもなく、のんびりと過ごしておられた。
「私の趣味は、散歩のたびに空き家になっている幽霊屋敷に名前を付けることです」と暮らしを楽しんでおられた。また、「カラスに餌をあげないでください」と長老が竹田さんに注意されていたことも思い出す。長老はいろいろなことに執着せず、さらりさらりと生きているんだなあと感じた。(続く)