過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑤スマナサーラ長老外伝:瞑想とは捨てること】2025.11.11

【⑤スマナサーラ長老外伝:瞑想とは捨てること】2025.11.11

「瞑想すると、ある境地に達することがあります。心地よさを感じたり、体が軽く楽になったり、充実感を得たりするのです。そして次に瞑想を始めようとする時、誰もが『あの境地を再び得たい』と思ってしまいます。しかし、そう思った時点で、その瞑想はもうダメなんです。〝今、ここ〟での真の体験から遠ざかってしまうんです。

瞑想とは、捨てることなんです。すべてを捨て去っていく。いつも新しい気持ちで臨むのです」。

これはスマナサーラ長老の言葉である。

私の中に「瞑想とは捨てること」という言葉が深く入ってきた。

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当時、私が学びに通っていたのは浅草の「仏法学舎」である。金田道迹(かねだどうしゃく)先生が、『法華経』や空海の『秘密曼荼羅十住心論』を講義されていた。

大乗起信論』や『正法眼蔵』といった難解な書物も、金田先生の手にかかると、実にわかりやすく示された。難解な理論も即座に曼荼羅に表す達人であった。

先生は元々仏壇屋を営み、独学で仏典を幅広く読み込み、自ら出家した方である。会場にはいつも20名ほどの参加者が集まり、毎回10時間に及ぶ講義に耳を傾けていた。私はだいたい質問役になっていた。

その「仏法学舎」に、竹田倫子さん(後に上座仏教修道会を主宰)がスマナサーラ長老をお連れした。あいにく、その日、私は欠席していた。

後日、その時のやり取りを録音したテープを借りて聞くことになった。

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金田先生には、初めから長老は「小乗仏教という劣った教えを頑なに守るお坊さん」という先入観があったのだろう。加えて、南の島のスリランカ人である。「大したことはない」という偏見もあったようだ。

金田先生は体が大きく、足が不自由だった。座学に徹するだけだったので、足の金認可衰えたとも聞いた。二人の問答の様子は、金田先生だけが安楽椅子に座ったまま、長老は床に座らされた状態であったという。

そのテープを聞いていると、長老の質問に対し、金田先生の論理が次第に破綻していく様子がわかってきた。

長老は、金田先生からいきなり「なぜあなた方は、仏教でも一番ランクの低い小乗仏教をやっているんだ?」と問われたという。

そして、金田先生には「私は仏教のことを何でも知っている。私はすごいのだ」という一種の驕りが感じられた。

どれだけ大乗仏教が優れていることを示されても、長老には、「思考が停止している」「矛盾している」「論理が通っていない」「自我が強い」など、さまざまな問題点が浮き彫りに映っていたのだろう。

長老は謙虚に、下座に座らされたまま質問を重ねていった。

やがて、金田先生は問答に窮していく。

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そこで先生は、勉強会の参加者に向かって、「せっかくスリランカのお坊さんがいらっしゃっているのだから、どなたか質問してみなさい」と話題を振った。

すると、ある女性の参加者から「瞑想をする上で、最も大切なことは何ですか?」という質問が出た。それに対して長老が答えたのが、冒頭の言葉であった。(続く)

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私たちは何かを「得たい」「達成したい」という欲求がある。人生のリアリティは、まさにその執着を、さらりさらりと捨てていくことなんだなあ。「捨てること」が、この日常をつねに「新しい気持ち」で生きる、挑戦する、冒険するための鍵だということも。(続く)