【④スマナサーラ外伝:四念処】2025.11.11
それまでの日本の仏教界における「四念処」の解釈は、概ね以下のようなものであった。
- 私の身体や動作が「苦」であり「無常」であり「無我」であることを記憶し、忘れない。
- 私の感情が「苦」であり「無常」であり「無我」であることを記憶し、忘れない。
- すべてのものが「苦」であり「無常」であり「無我」であることを記憶し、忘れない。
麻原彰晃も、そうした説明を踏まえた上で説法を行っていた。
このあたりを軸に、麻原とスマナサーラ長老の対談を企画していたのであったが。
⦿---------------------------------------
ともあれ、これには根本的な問題がある。
「私の身体や動作が苦であり、無常であり、無我である」という事実に、実際に「気づき」が伴っていなければ、単に言葉だけを「記憶して忘れない」というのは意味がない。
実体のない観念に過ぎないからだ。「気づき」が伴わない教理は、修行者を真の理解へと導くことができない。
つまり、これまでの日本仏教では、学術的にも、悟りへと導くための核心的な実践である「四念処」の本質が無視されてきたのである。
⦿---------------------------------------
この「念」を「サティ」=「気づき」、つまり「あるがままに気づく」こと、すなわちマインドフルネスとして明確に説いたのが、スマナサーラ長老であった。
これにより、日本仏教における「四念処」の理解は、観念的・記憶的なものから、実践的・体験的な「気づき」へと転換を遂げた。
ここから、日本仏教の根本的な理解が変わり始めたと私は考えている。これは、日本仏教を静的な「信仰」の体系から、動的な「観察実践」の道へと再構築した画期的な転換点であった。
すなわち、日常生活の中で「気づき」こそが仏教の実践であるということが、具体的に理解されるようになっていった。「仏教を知る」という知識の次元から、「仏教を生きる」という実存の次元への転換が起きたのである。
スマナサーラ長老は、その具体的な手法として、呼吸への気づき、動作への気づき、感覚や感情への気づきを、「スローモーション」と「実況中継」という方法で教えていった。初期には「ラベリング」という言葉も用いられていた。(続く)