【②スマナサーラ長老外伝】2025.11.5
「すごいお坊さんがいるんです。スリランカの。今その方から学んでいます。池谷さんに、ぜひその長老を紹介したい」
竹田倫子(後の上座仏教修道会主宰)さんに言われた。もう40年も前のことである。
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スリランカに行ったこともなければ、テーラワーダを学んだこともない。スリランカなどは後進国。南方仏教は小乗だ。大乗仏教の哲学や宇宙観と比較したら、遥かにレベルが低い。
私の中では、「暮らしのスタイルは戒律ガチガチで形だけ。そのお坊さんは、大したことないだろう」と、すでに先入観と偏見があった。
ともあれ、竹田さんが「ぜひに」と言うので、会場である竹田さんの西新宿のマンションを訪ねた。
平日の昼間だったので、女性がメインの集いであった。子育て中のお母さんたちが20人くらいか。
赤ちゃんが泣いている、幼い子がよちよち這い回っている。
部屋の真ん中には、オレンジ色の法衣をつけた僧侶がいた。
その方こそが、スマナサーラ長老であった。
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挨拶すると、びっくりするほど日本語が堪能。そして自然で普通な対応である。
小さな子どもたちは、外国人で派手な衣装のお坊さんが珍しいのだろう。近くに寄っては裾を引っぱってよじ登ろうとする。肩に乗る。頭の上に乗っかる子供もいる。
そんな状態で、スマナサーラ長老は法話をしていた。
お母さんたちへの説法だから、難しい理論ではない。暮らし、生き方に役に立つ仏教の知恵を教えてくれていたのだろうが、法話の内容に記憶はない。
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長老と少し対話したことは覚えている。
たぶん「自分がいるというのはどういうことですか?」とか「あるってなんですか?」とかいうことについて、やりとりしたと思う。
質問している自分がそのことについて、まったくわからないのに、スマナサーラ長老の話がわかるはずがない。
「自分がいるって何?」と問いながら、実は「自分」という概念に溺れているわけだからね。いまここに気づいていない、概念の海に溺れていて、目の前の生き生きとした現実に直面していない自分であった。
しかし、この出会いは自分にとって、一つの「突破」の大きな出会いとなってゆく。「小乗だ」と思って低く見ていた仏教(テーラワーダ)こそが、実は最も生々しく『生きる』ことを教えてくれたのであった。
(続く)
※「私の精神世界・宗教史」の執筆のペースメーカーとして投稿しています。