過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【④死んだらおしまい、ではなかった】2025.11.4

【④死んだらおしまい、ではなかった】2025.11.4
──まったく〝手ごたえ〟がない場合もありましたか?
ほとんどの葬儀において、「本人」の手ごたえを感じとるようになっていきました。「手ごたえ」といっても、千差万別。はっきりしている場合もあれば、消え入るように微かな場合もあります。それは、自分の感度が低かったことや、故人の個性にもよります。
手ごたえがなかったケースというと、通夜の席で、祭壇の前でお経をあげていると、まったく「本人の手ごたえ」がないことがありました。
普通の場合「本人」は内容の違いはあれ、必ず何かを訴えてきます。ところが、この方の場合は、まったくと言っていいほど「手ごたえ」がないんです。
そこで、私は遺族に訊いてみました。「どうも本人がいないようなのですが、失礼ですが、どのようなお亡くなり方だったのでしょうか?」
すると、意外というか案の定というのか、「交通事故で即死」ということでした。これで「本人」を感じとることができない理由がわかりました。つまり、「本人」が葬儀の場にいなかったわけです。
交通事故、それも即死ということであれば、あまりに突然に予期しないことであり、「本人」は死んだという自分の状態がまったくわからないことが多い。そのため、亡くなった後も、自分の死に気がつかないまま事故現場の近くにさ迷っている場合が多いんです。
だから、いくら遺体を自宅に運んで来て、祭壇を設けても「本人」はそこにはいない。このような場合には、まず事故現場に行かなくてはならないんです。そして、現場で本人に伝わるようにお経をあげるんです。
──故人に「もうあなたは亡くなったんだよ」と伝えるわけですね。
事故現場でお経をあげることによって、「本人」に自分の状態、すなわち「自分は死んだ」ということを納得させるのです。
そして、霊である本人を自宅に連れ戻さなくてはならない。知らず知らずに「本人」不在のまま葬ってしまう場合には、本人は自分の死に気づかないまま、長い間、事故現場の周辺をさ迷うことになってしまうかもしれない。
まるで「霊のGPSリセット」のようだ。
死は終わりではなく、我という意識の『引っ越し』なのかも。でも、住所変更届を忘れると霊は迷子になるのかもしれない。
これは単なる「霊体験談」ではなく、「死後の意識がどうなるか」を一僧侶の現場体験の視点で記録していったもの。
特に、「死んだことに気づかない霊を導く」という葬儀の役割は、「送る側」と「送られる側」の両方の視点を同時に教えてくれる。
「自分の死後も、誰かがちゃんと『死んだよ』って教えてくれる人が必要なのかも。
※「私の精神世界・宗教史」の執筆のペースメーカーとして投稿しています。「死んだらおしまい、ではなかった」のシリーズはとりあえずここまで