【②死んだらおしまい、ではなかった】2025.11.4
大島さんは言う。
「死ぬということは、身体と魂とが離れる状態」 身体はこの世から消え去る。けれども、死んでも「本人」は消滅せず、ずっと続いていきます。身体というものは、あくまでこの世の借り物・乗り物なんです。
死によって身体と離れると、「本人」だけになります。外面の覆いが取り除かれて裸になったほんとうの「本人」だけになる。その人の本質的な姿です。死によって、自分を押さえつけていたも
の、規制していた枠が外れるわけです。
──そのとき亡くなった「本人」はどこにいるのでしょうか?どうなっているんですか?
だいたいの場合、「本人」は遺体の近くにいます。
そして、遺族や僧侶が葬儀を行う様子をじっと静かに見ているのです。葬儀の光景も遺族の方々の様子も、「本人」には見えています。声も聞こえているようです。でもこのとき、一割くらいの人は、自分が死んだことを分かっていません。
でも、通夜で感じる「本人」の様子は〝キョトン〟というか〝ボケー〟というか、要するに「何がなんだかわからない」といった感じが多いです。そして、お経をあげているうちに、もう少し進むと、「疑っている」という感じになる。「本人」が「自分は葬式の夢を見ているのだ」と思っていたり、またはそう思い込もうとしているようなのです。
──「本人」には葬儀をしている光景はわかるんですね?
どうも、自分の葬式をしているらしい、ということはわかっていても、「まさか自分が死んだなんてことはない。これはきっと夢なんだ、なにか別の世界のことなんだ」と、自分のこととはとらえていない人もいます。
──そうすると、お坊さんの役目というのは?
お経をあげながら、そうした本人に向かって「あなたは死んだのですよ」と伝えているわけです。自分が死んだことに気づかなければ、この世に執着して呪縛霊みたいな存在になることもありますからね。
「もう死んだんだから、次の世界に行きなさい」と伝えるわけです。それが葬儀の意味です。
⦿---------------------------------------
──大島さんは葬儀社の下請けで初対面の故人ばかりを担当し、遺族から事前情報を一切聞かない姿勢は、科学的検証に近い客観性を感じます。
しかし、感じた存在が故人の霊なのかどうかはどうやって検証できますか?
私は、葬儀社の下請けでやっていましたから、故人とはまったくの初対面。しかも読経に入るまでは、遺族から故人について話を受けないようにしていました。
そのことで、何の先入観もなく故人と接することができました。そのほうが、より正確に「本人」の状態、私の感じる「何か」の内容を知ることができました。
檀信徒の場合ですと、生前に故人を知っているので、なんらかの思い出や知識がある。すると、そのことが先入観や思い込みとなって、故人から受ける感じが歪められがちです。
このとき感じた「本人」のことをときおり遺族に話すと、初対面にも関わらず、私が「まるで故人と生前に親しく付き合っていたようだ」とか「そんなことまでご存知なんですか」と驚かれることもありました。
なかには、当の遺族も知らなかった話が出てくることもあり、遺族が故人の友人に聞いてはじめて知ったという事実もありました。(続く)