過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑨オウム】2025.11.1

【⑨オウム】2025.11.1

信徒たちにとって、あらゆる行為はグル(麻原彰晃)から命じられた「ワーク(修行)」となり得た。デザイナーが重機(ユンベル)で土地を造成したり、銃器の部品を製作したり、ヘリコプターの操縦免許を取得することも、すべて修行の一環であった。

そして、その「ワーク」には、「ポア」(殺害による救済)という名目で人を殺す行為も含まれ得たのである。

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あれだけ多くの信徒を集めたという事実から、麻原彰晃にはカリスマ性と人心を掌握する相当な力があったことは間違いない。その説法は、仏教の体系的知識を持たない者にとっては、どこに矛盾や問題があるのか見極めがたい部分も多分に含まれていた。

行為の結果ではなく「行為そのものに徹する」ことを重視する考え方は、インド哲学の一つのエッセンスでもある。
例えば、『バガヴァッド・ギーター』(第2章19節)には、「殺す者もおらず、殺される者もいない」という表現が見られる。

密教の系譜においても、善無畏(ぜんむい)による『大日経疏』の注釈には、「大悲心をもって、より多くの人命を救うため、またはその者自身の解脱の因縁を作るために、悪人を殺害することは許容される」という趣旨の記述が存在する。

また、真言宗の僧侶が日常的に読誦する「理趣経」には、「たとえ三界の一切の有情(生きとし生けるもの)を害するとも、悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に堕ちず」という文言がある。

『涅槃経』にも、正法を守るために悪比丘を殺害した王が罪に問われないというエピソードが記されており、日蓮などがしばしば引用している。

これらの経典や注釈は、文脈を無視して「ポア」(殺害)のような行為を正当化するために「利用」しようと思えば、文脈を無視して「利用」される危険性があった。

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同様の論理は、歴史的に「戦時教学」としても機能した。例えば、浄土真宗においても、戦時中には「人を殺すことはやむを得ない」「戦死すれば阿弥陀仏の浄土に往生できる」と説かれた時期があった。

ほぼ全ての仏教宗派が、当時の国策に協力する形で教義の解釈を変えていったのである。

創価学会は、軍部政府に反対して平和と人権を唱えたと自称するがあるが、実際にはそう単純ではない。

初代会長・牧口常三郎は、「神道を以て戦えば(中略)邪教なるが故に敗るるのである。法華経を以て戦わなければ勝てない」と述べ、戦意高揚の大会を開催した事実も記録に残っている。

このように、教義というものは、時にいかようにも「利用」されてしまう危険性を内包している。

だからこそ、「自分自身の頭で考える」という行為が何よりも重要なのである。

結論「教義は刃物。使い手次第で、救いにも殺しにもなる。」
「自分の頭で考える」ことこそ、最大の修行と。

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オウムの幹部が「オウムの世界以外の世界は考えられない」と語っていたように、いったん一つの世界観に深く没入すると、その外側を想像することが難しくなる。

これはおそらく、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)などの閉鎖的なグループにも共通する心理だろう。

さらに言えば、これは私たちの日常にも通底する問題である。例えば、かつての私にとって「働くこと」は「サラリーマンになること」と同義であった。できるだけ一流企業に入り、そこで頑張ることが人生の正解だと思い込んでいた。

サラリーマンという生き方そのものを辞めてしまうという選択肢は、頭の中に存在しなかった。すなわち、「その世界しかない」という状態に、知らず知らずのうちに陥っていたのである。

オウム真理教という特定の事件を超えて、「人はどのようにして思考の自由を失うのか」「教義や思想はどのようにして危険なものに変容するのか」という問いでもある。