過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【⑧オウム】2025.11.1

【⑧オウム】2025.11.1

オウムの信徒を見ていると、いわゆる「信仰者」という印象は薄い。むしろ、麻原の教えを忠実に実践しながら、そこで語られる「体感」を得ようとする修行者のように思える。

オウムには特定のコースとプラクティス(修行法)があり、それを実践すれば神通力が現れる、あるいは特定の現象が起きると説かれていた。信徒たちは、それを実証しようとする探求者の集団に見えた。

シャクティパット(エネルギー伝授)を受け、五体投地をし、瞑想やマントラを唱えることで「バイブレーションが変わる」と感じる——その意味で、彼らはエネルギーに対して敏感であり、身体感覚に優れていた。

ここには「宗教=信仰」という一般的な枠組みではなく、「体感」「現象」「エネルギー」を求める実験的修行者というイメージがある。

「オウムは宗教ではなく、体験型の実験集団だった。実験的修行コミュニティ」とも言えるかもしれない。

「体感を科学的に追求する」 という点で、オウムと現代のマインドフルネスやスピリチュアル実践などの潮流は、ある種の連続性を持っているように思われる。

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なぜ、当時そうした人々が多く集まったのか。

背景には、1980年代の日本のスピリチュアル市場における空白があった。

当時、伝統仏教は葬式や儀式、説教が中心で、身体性に根ざした実践は稀だった。ハタ・ヨーガは健康法や美容法として流行し始めていたが、その哲学的深みは十分ではなかった。本格的な密教やヨーガを学ぼうとすれば、海外に出るしかない状況だった。

瞑想やヨガを深く探求したいと思っても、国内にはほとんど受け皿がなかった。健康志向のヨガ教室は数あれど、インドの伝統に基づいた体系的なメソッドを学べる場は限られていた。寺で聞ける話は「説教」や「道徳」が主で、身体感覚を研ぎ澄ます「行」としては遠いものに感じられた。

また、それらは宗派色の強い「日本仏教」であり、ブッダ本来の教えというより、各宗派の祖師の教えを伝えるものだった。

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その点、オウムはインド哲学からヨーガ、原始仏教大乗仏教密教までを網羅する総合的なコースを提供していた。インドやアメリカには同様の場はあったかもしれないが、日本では他に見当たらなかった。

こうして、本気で「体感」を追求したい若者たちはオウムと出会い、さまざまなプラクティスのコースに参加し、実践を積んでいった。「本気の追求者」と「体系化されたメソッドを提供する場」とのミスマッチが、オウムの土壌を形成した一因と言える。

彼らは全財産を布施して出家し、修行者のコミュニティで生活する。そこは「行」の世界であり、各自に役割とワーク(作業・修行)が与えられた。

同じ修行者ばかりの環境は、多くの元信徒が「心地よく、豊かな暮らしだった」と語るゆえんだった。

「オウム食」と呼ばれる無味無臭に近い野菜の煮込みも、慣れると素材そのものの味がわかるようになり、「たまらなく美味しい」と感じるようになったという。

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私が麻原彰晃に接したのは、川崎市の市民会館での説法会だった。5時間にも及ぶその会は、独特の空気に包まれていた。

開演前、信徒たちは静かに座り、誰もおしゃべりしない。その代わりに手にはカウンターを持ち、ひたすら「カチカチ」と操作しながら何かを唱えている。

オウムには一日一万回などと定められたマントラ誦読の修行があり、彼らは大学受験生が単語帳を暗記するかのような集中力でそれに没頭していた。その光景は、ただならぬものを感じさせた。

開始10分前、客席に着くと、舞台の緞帳が50センチほど開いたままだった。そこから舞台の様子がうかがえる。スタッフが準備する中、麻原が歩いてきて椅子に座る。結跏趺坐を組んだ彼の足だけが、緞帳の隙間から見えた。

「ああ、そこにいるんだ。組んだ足だけ見えて面白い」

そんなざっくりとした雑な感じが、いかにもオウムらしかった。「神聖さと俗っぽさの同居」こそが、オウムの不気味な魅力の核心だったかもしれない。

ブザーが鳴り、緞帳が上がると、麻原彰晃が姿を現した。

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麻原は「最初に歌います」と言い、自作の歌を5曲ほど続けて歌った。一日に30曲は歌っていたのではないかと思われるほどだ。

そこにはアマチュア劇団の発表会のような雰囲気と、絶対的指導者が存在するというアンバランスが共存していた。

説法の内容自体は特に印象に残っていない。インドのラージギール(霊鷲山)で、ブッダとの約束を果たすために毎日山に登ったという信徒の体験談の映像が流された。

私には大した内容とは思えず、特に感銘も受けなかった。ただ、「なんだか不気味だけど、面白そうな教団だ」という印象は残った。

また、世田谷区の赤堤にある友人宅を訪ねた際、近所にあったオウムの東京道場にふらりと立ち寄ったことがある。

そこで「サクラー正悟師がいらっしゃっているので、個人的な面談をしませんか」と声をかけられ、30分ほど話した。彼女は普通のOLのような感じで、これといって強い印象はなかった。