過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【③オウム】2025.10.31

【③オウム】2025.10.31

役人には「池谷はオウムらしい」と危険人物のように思われ、会場を借りにくくなった。
そこで次の企画「声の響きと体の関わり」のワークショップは、国立市ではなく、隣町の国分寺の公民館で行うことにした。

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ファシリテーターは、ちょうどインドから帰国したMさん。お土産にサンダルウッドのお香を持ち帰っていたため、ワークショップ中にそれを焚いた。
会場は地下一階の多目的ホール。その香りは強烈で、1階の事務所まで薫っていった。

事務局の人々は「ん?なんだこの香りは」と不審に感じたのだろう。数人が様子を見に来たちょうどその時、参加者が「あぁ──」と声を出すワークの最中だったため、余計に怪しい印象を与えてしまった。
この話は国立市の役人にも伝わり、「池谷さん、国分寺の公民館でお香を焚いたらしいね」と言われる始末だった。

サンダルウッドのお香は、インドでは神聖な儀式に用いられ、日本でもアロマテラピーで親しまれている普通のものだ。しかし、当時は「怪しい匂い」として受け止められていた。

そんなことが重なり、ワークショップを開催する環境はますます厳しくなっていった。

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チラシに「瞑想」と書いてあるだけで怪しまれるようになった。いつも置かせてもらっていた喫茶店や書店でも、警戒されることが増えた。
例えば、舞踏のワークショップのチラシに写っていた踊り手の方が髭を生やしていただけで、「うちではお断り」と言われたこともある。
スマナサーラ長老の「ヴィパッサナー瞑想」も、「瞑想」という言葉があるというだけで、怪しむ声が上がった。

舞踏家の髭がチラシにあるだけで「断り」。「見た目が違う=危険」という、原始的な排除本能。スマナサーラ長老という正統な上座部仏教の僧侶の教えなのに、「瞑想」という単語だけで拒絶。

「声の響きと体の関わり」という、人間の根源的な表現を試みるワークショップが、「怪しい」と排除されていく。
インドの聖音、仏教瞑想――数千年の叡智の継承が、一過性の社会パニックによって否定されようとしている。

これらは、オウム事件の「ビジュアル・トラウマ」(ローブ、剃髪、髭、瞑想など)が、「カルトのイメージ」として社会に刷り込まれた結果でもある。

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そういう時代だったのだ。

コロナ禍の「マスク警察」を振り返れば、世間の同調圧力や、思い込みによる警戒心がどれほど強いか、おわかりいただけるだろう。

「オーム」の誤解から始まった疑念が、お香の香りや「瞑想」という言葉、さらにはチラシの画像に至るまで、あらゆる要素を「証拠」として増幅していく。まさに現代社会における「レッテル貼り」思考停止状態の典型。一度ついた嫌疑が自己増殖していく。人々が互いに監視し合い、些細な違いを排除しようとする心理がはたらく。

一度レッテルが貼られると、無関係なものまでが「証拠の連鎖」に組み込まれる「確証バイアス」の実例。

社会的パニックがどのように個人の活動を圧迫し、文化の継承さえも阻害するか――当時の異常な空気感を後世に伝えるという意味もあって、この記録を綴っている。(続く)