【①オウム】2025.10.30
「池谷さんのワークショップに来る人は、すばらしい人ばかりです。ですから、どうか尊師を呼んでください」
「尊師って、麻原彰晃のこと?」
「そうです。麻原尊師です」
「えー? 呼んだら来てくれるの?」
「はい、来ます。お願いします」
「へえ、それは面白いかも。ひとつ企画してみましょうか」
いつもヴィパッサナーの体験に参加していたMさんが言った。彼はオウム出版の社員であり、その提案であった。
――1994年のことである。
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あの頃、オウム真理教はまだ「カルト」ではなく、一部のインテリ層から「興味深い新興宗教」として受け入れられていた。
麻原彰晃は、テレビのバラエティ番組や『朝まで生テレビ!』にも出演していた。また、東工大などの大学祭や市民会館で講演を行っていた。中沢新一、吉本隆明、島田裕巳、荒俣宏、ビートたけし、栗本慎一郎など、知的な文化人が麻原を評価していた時代である。
当時、私は「アートエナジー」というワークショップを主催していた。スマナサーラ長老によるヴィパッサナー、スーフィーダンス、アフリカンドラム、シタール、気功法、カバラの瞑想など、さまざまな企画を行っていた。
しかし「アートエナジー」として主催すると、やや宗教色がつくかな、という程度の印象だった。だが、あまり細かく考えず、縁の流れで「やりましょう」という話になったのである。
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オウムの本は読んでいたが、ベースとなる「四念処」――すなわち「念=気づき」の部分を、麻原は理解していないと思っていた。そのあたりも含めて話をしてもらえれば面白いと思ったのだ。
できれば、スマナサーラ長老との対談を考えていた。長老に麻原彰晃との対談を打診して、もし了承が得られれば対談形式に、関心がなければ麻原だけの講演会に――そんな腹づもりでいた。ちゃんと宣伝すれば100人くらいは集まるだろうと思っていた。
オウム側はそのつもりで、女性のTD師、東京道場の道場長Nさん、そしてオウム出版のM君と打ち合わせをすることになった。
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国立市の谷保駅で待ち合わせると、オウムの服を着た三人が改札から降りてきた。私の国立のマンションで打ち合わせをすることになったが、その前に会場となる国立福祉会館を下見した。彼らは会場を視察し、さらにはメジャーで寸法を測り、大きなリムジンカーが車庫に入るかどうかも確認していた。
その後、マンションで打ち合わせとなる。大体のスケジュールや集客方法などを話し合った。
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感心したのは、オウムの人たちの坐る姿勢だった。会話していて三人とも、びしっと結跏趺坐して全く揺れない。私はというと、ぐらぐらと揺れてしまい、結跏趺坐など痛くてできない。
だいたい打ち合わせも完了し、日程も決めた。
そのうちチラシも作らなくては、スマナサーラ長老とも打ち合わせしなければ、と思っていた。
ところが、1994年5月、向こうから突然キャンセルの連絡が入った。理由を聞くと、麻原彰晃のいる上九一色村の道場上空に米軍機が飛来し、毒ガスを散布した。それで麻原が重体になったという。
米軍機が毒ガスを撒くなど荒唐無稽で突飛な話で、変だなと思ったが、ともあれ企画は中止となった。
それから1か月後、6月27日に起きたのが「松本サリン事件」である。
私はその「毒ガス散布」の話を聞いていたので、オウム出版のM君に「あの事件、オウムが関係している気がする」と伝えたことがあった。
そして1年後の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きたのだった。
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その経緯をいろいろな人に話していたところ、いつの間にか「池谷がオウムらしい」という噂に変わっていた。
ある日、いつも借りている国立福祉会館の責任者に呼ばれ、「池谷さんがオウムだという話があるんだけど、本当ですか?」と尋ねられた。
私の主催するアートエナジーでは、さまざまな瞑想的プログラムを企画していた。アフリカンドラムで踊っては瞑想、気功で踊る、ダイナミック・メディテーション、ヴィパッサナー瞑想、カバラの智慧と瞑想……そんな内容である。
精神世界に関わっていない人から見れば、どれも怪しげに見える時勢になっていった。私は作務衣なども着ていたし、見た目もオウム的だったのだろう。国立市の行政からすれば、「こいつは怪しい」と思われても仕方がなかった。
「精神世界=危険」と短絡的なレッテル貼りの風潮に巻き込まれてゆくのだった。(続く)