【③天理教】2025.10.28
天理教の教会を訪ねるのは、これで三度目になる。
友人の祖母が天理教の信者だったというので、その話から始まり、玄関先でいろいろ語り合った。以下は、そのやりとりである。
──お勤めについて。
「朝も夕方も、お勤めは六時半からです。朝は“目が覚めたこと”を感謝し、夕方は“一日の恵みに感謝”します。」
──目が覚めたことに感謝、ですか。目が覚めるのはあたりまえのように思っているけれど、よく考えてみれば、私たちはみな“生かされている”んですよね。日常の当たり前のなかに“奇跡”を見るという感じですね。
「まさに“生かされている”んです。このいのちは、神さま(宇宙とか真理といってもいい)からお借りしているもの。いのちは神さまからの“かりもの”。そのことを感謝するのです。」
──いまのコロナウイルスのことは、どのようにとらえていますか。
「天理教では、“身情(みじょう)”と“事情(じじょう)”という言葉があります。
自分の身に起きたいろいろな不遇は“身情”。コロナウイルスのような社会的な試練は“事情”。
それらはすべて、“神のおためし”として受けとめています。」
──なるほど、“事情”としてとらえるのですね。神のはからい。人は必ず死ぬものだから、あわてふためくこともないのかもしれませんね。
「教えの基本は、“人は死ぬのではなく、生きどおしである”ということです。
いのちは神さまからお借りしているもの。それを最後にお返しし、また新しいいのちとして“出直す”のです。
たいせつなのは、“人は一列(いちれん)みなおなじ”。互いに立てあい、助けあう。つまり“陽気ぐらし”をすることです。」
説教がましさのない、わかりやすく腑に落ちる語りであった。単なる教義説明ではなく、会話の中で自然に浮かび上がるというのがいい。
神殿は整然として清浄、静寂に満ちており、心地よい空間だった。
チベット仏教を学んでいる友人も、「宗教は異なっても、内容はすべて通じるものがある」と感心していた。
※「私の精神史、宗教史」の執筆のためにペースメーカーとして投稿しています。信仰の民俗史みたいな感じになりそうだけれど。