【②天理教】2025.10.28
デイサービスを経営していた頃、私は施設長として送迎も担当していた。
その日は、利用者さんを送り届けた帰り道のことだった。
ふと思い立って、天理教の春野教会を訪ねてみた。
その4年前、娘のあかりをともなって訪ねたことがある。
そのときは、天理教の教会本部を参拝する際に、信徒用の宿泊施設を利用できるよう推薦してくださる、というお話だった。
突然の訪問だったが、奥様が出てこられ、「どうぞどうぞ、お上がりください」と本堂に通してくださった。
天理教の礼拝の作法にしたがって、柏手を四つ打ち、神殿に挨拶。奥様と雑談を交わした。
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私のことをしっかり覚えていてくださった。「あかりちゃんと言いましたっけ」と、娘の名前まで記憶しておられた。
さらに驚いたのは、「デイサービスを始められたそうですね」と、近況までご存じだったことだ。
教会を訪ねたのは、とくに理由があったわけではない。
ただ、そこに教会があり、ふと立ち寄ってみたくなっただけである。
神殿でお話を伺ったり、世間話をしたりしたかっただけだ。
ふと訪ねたときの対応や、教会長さん・住職・神主などとのやりとりの中に、その教えが日々の暮らしの中にどれほど息づいているかが、よくあらわれるものだと感じた。
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明治期に興った第一次新興宗教には、いずれも強い魅力がある。
天理、黒住、金光、大本。そして御嶽教、解脱会など。
これらの本部や教会には、だいたい訪ねたことがある。
それぞれの教祖が著したもの、聖典や教典の類も読ませてもらった。
教祖たちのすさまじい生き方――投獄や神殿破壊といった弾圧を受けながらも教えを伝え続けた姿を思うとすごみがつたわる。
天理教の教祖、中山みきは官憲から弾圧を受け、18回も投獄・拘留された。大本は神殿をことごとく破壊された。1,000名近くが逮捕交流された。16名が獄死している。
そのような弾圧を受けながら、信徒にわかりやすく説こうとしたその姿勢に、深く感銘を受ける。
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訪ねた頃は、コロナウイルスが流行していた。話題は自然と「生と死」へと及んだ。
天理教の教えの基本は、人は死ぬのではなく「生きどおし」であるということ。
この肉体、この命は、神(宇宙と言っても、真理と言ってもいい)からの「かしもの・かりもの」である。
死とは、神からお借りした肉体をお返しすること。
そしてまた、新しい命として「出直す」ということ。
そのような話をしたのだった。
大切なのは、互いに立てあい助けあい、「陽気ぐらし」をすること。
互いに拝み合う姿――それはかつて天理教の本部(おぢば)を訪ね、朝のおつとめに参加させてもらったときに、深く感銘を受けた光景である。
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以来、数度訪ねているが、いつも変わらず心地よい。
何より神殿が整然としてすがすがしい。
わが家の暮らしはごちゃごちゃしているので、その違いをいつも感じる。
奥様と話していると、教会長も顔を出してくださった。
親様(天理教の教祖・中山みき)の「十二下り」の歌のこと、三か月の修練コースのこと、おぢばのことなど、いろいろ教えてもらった。
教義がどうこうではない。
この落ち着いた雰囲気、整然として自然な空気、そして穏やかな人のあり方に、深い感心を覚えた。
宗教は外から眺めて観察ものではなく、内側から体験として探求しようとする。宗教という場を生きた関係の中で感じ取るというところだ。
その意味で、私にとっての天理教は、安定した落ち着きと、暮らしの中にある安らぎを感じさせてくれる存在なのである。
※「私の精神史、宗教史」の執筆のためにペースメーカーとして投稿しています。信仰の民俗史みたいな感じになりそうだけれど。