過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【①天理教】2025.10.23

【①天理教】2025.10.23

私はさまざまな宗教施設に気軽に足を運ぶ。

宗教を「信仰体系」ではなく「場の体験」としてとらえる。「空気」「響き」「祈りの姿」といった、感覚的で生きた宗教性を見ようとしている。

宗教には難しい理屈や教え、儀式があるが、教義や本尊は二の次、三の次である。まずはその場の雰囲気。主要な祈りの場、行いの場がどれだけ整っているか。波動、雰囲気、発するエネルギーといったものが大切だと思う。

それぞれの場には独特の「味わい」があり、良い悪いではなく、その違いを感じるのが好きだ。新興宗教のような団体では、教義や組織に縛られて不自由になることがある。だから、どんな人でも気軽に祈れる、自由な場があるといいと思う。

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かつて、袋井駅近くのイタリアンレストランで食事をしようとしたところ、開店まで30分あった。

さて、どこで時間をつぶそうかと考えていると、拍子木の音が聞こえてきた。黒い法被を着た数人が、歌いながら歩いている。

「あしきをはーらい、たーすけたまえ……」。

張りのある伸びやかな声。あれは天理教の人たちだ。そういえば、この近くに天理教の教会があったな。時間があったので、立ち寄ってみた。

そこは山名大教会。千人ほどが入りそうな大きな畳の本殿。場の空気は整い、清々しかった。

ちょうど、若い女性たちが奉仕として「お手振りの行」をつとめていた。「あしきをはらい、たすけかけこむ いちれつすましてかんろだい(悪しきを祓い 助け駆け込む 一列澄まして甘露台)」。

その歌声と手の動きは、優雅で安らかだ。心地よく、しばしその場から動けなくなった。正座しながら歌声に耳を澄まし、清明な神殿の空気を味わった。

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立派なお寺や神社でも、これほどのすがすがしさ、柔らかさ、透明感はなかなか感じられない。天理教、すごいな、と思った。

なぜだろう。

まず、彼女たちの歌声が場の空気を整えている。仏教の権威的で難しいお経とは異なり、誰にでもわかる子守唄のようなメロディーだ。

神殿はすっきりとし、掃除も見事に行き届いている。

天理教神道の系譜にあるため、ごちゃごちゃした像や飾り、加持祈祷や現世利益を求める札といったものは一切ない。木造で広々とした畳の間だけという簡素さがいい。

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今年の五月、天理教の本部神殿を訪れた。私のような信徒でない者も自由に参加できる。

3157畳もの広さの、すっきりとした清浄な空間。中央には「おぢば」と呼ばれる聖域があり、その中に「甘露台」がある。

そこには図像のようなものはない。形がないのだ。聖なる空間そのものといえる。

その形のない「甘露台」に向かって、360度、みんなが「みかぐらうた」を唱え、手を振って拝む。「あしきをはらうて、たすけたまえ 天理王のみこと」と唱える。

本尊がないため、互いに拝み合うような形になる。そこでは、100人のグループ、数十人、数人、あるいは一人で、思い思いに踊りながら祈っている。

天理の中高生たちが学校帰りに立ち寄り、100人ほどで一斉に唱える「みかぐらうた」は迫力があった。

また、10人や数人、三々五々、それぞれが祈っている。

たった一人の女性が「おぢば」の前で椅子に座って唱えていた声は、まるでジブリのアニメのような響きで、じんわりと心に染み入り、聞き惚れてしまった。こんな場があるんだ、こんな宗教もあるんだと感心した。

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15年ほど前、はじめて奈良県天理市にある天理教の本部を訪ねたことがある。

早朝だったから、何百人もの人が両手両膝を使って真剣に廊下を磨き上げていた。

教祖・中山みきの「おふでさき」にある「十二下り」を歌いながら磨き上げている。すごいものだなあと感銘した。

この行いは「心のほこり」(欲、憎しみ、自己中心的な心など)を取り除く行為であり、掃除を通じて自分自身の心を見つめ直す修行なのだと知った。

あまりに感銘して、何度も訪ねたいと思った。

やはり早朝からの参拝がいい。しかし、早朝に行くためには、ちかくに宿を取らなくてはならない。

神殿の側には、信徒の宿舎らしき建物が並んでいる。「泊まれますか?」と聞くと、「教会長の推薦があれば泊まれる」ということであった。

(続く)

※「私の精神史、宗教史」の執筆のためにペースメーカーとして投稿しています。信仰の民俗史みたいな感じになりそうだけれど