過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【チベット仏教との出会い】2025.10.20

チベット仏教との出会い】2025.10.20

リンポチェ「お前は出家しなさい。今この場で」
私「う……」と絶句。
リンポチェ「真に自由になりたければ、今ここで出家しなさい。さもないと、インドの水牛のようになるぞ。
彼らは鼻に輪をはめられ、行きたいところにも行けず酷使されている。そんな人生になる。出家すれば、真に自由になれる。」

私「はぁ……」

リンポチェ「さあ、どうだ。このままサラリーマンを続けていると、水牛のように鼻輪で縛られた人生になるぞ」

インドでは牛は自由で尊敬されているが、ウォーターバッファロー(水牛)は鼻輪で縛られ、労働に使われている。

リンポチェ「お前には見込みがありそうだ。いい僧侶になれる。チベット大蔵経を日本語に訳してみないか」

そう言うのだった。なんとも唐突な。
出家とは……。覚悟が必要だ。

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ブッダが悟りを開いた地、ブッダガヤを旅した。

小さなレストランで食事をしていると、濃い臙脂色の衣をまとった西洋人の僧侶がいた。チベット仏教の僧侶だろう。珍しいので声をかけた。

私「チベット仏教のお坊さんですか?」
僧「そうだ」
私「どうして僧侶になられたんですか?」
僧「私はデンマーク生まれで、元はドライバーだった。インドを旅している時にある僧侶に出会い、それがきっかけで出家したんだ」
私「へえ、どんな体験だったんですか?」
僧「その僧侶に会い、質問しようとした瞬間、不思議と自分の中から次々と答えが湧き出てきたんだ」
私「ほぉ、そんな僧侶がいるんですね。会ってみたいものです」
僧「今、カルマ寺という寺にいるから、会うこともできるよ」
私「へえ、僕みたいな者でも会ってくれるんですかね」
僧「もちろん会ってくれる。行ってみたらいい。その方の名前は、カール・リンポチェという」

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それは楽しみだ。初めてのチベット仏教の体験ができるかもしれない。さっそく会いに行こう。

翌朝、チベット寺院のカルマ・テンプルへ出かけた。入り口には、西洋人ばかりが面談を待つ行列ができていた。私はその最後尾に並んだ。
しばらく待って順番が来て、部屋に入った。いよいよだ。少しドキドキした。

部屋には、痩せこけた老僧がベッドに座っていた。
傍らには、通訳の西洋人がいた。

英語力に自信がなかった私は、つい平凡な質問をしてしまった。

私「小乗と大乗の違いは何ですか?」
リンポチェ「小乗は自分自身がemptiness(空)、大乗はすべてがemptiness。それを修行で体得するのだよ」

うーむ。もっと深く聞きたいが、英語力が追いつかない。

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そこで、次の質問。
私「サラリーマンをしていますが、どうも満ち足りていません。そんな私にアドバイスを」
すると、彼は即座に冒頭のように「出家しろ」と言うのであった。

「いや、その、急すぎて。私は若く見えますが、38歳なんです。日本に帰ってから考えます」
その程度の答えしかできなかった。

すると、通訳の西洋人が「お前の干支は〝the snake〟(巳年)か?」と尋ねてきた。

西洋人(おそらくドイツ人)なのに、干支を言い当てるとは驚きだ。
もしかすると彼は私と同い年で、誰か日本人から「日本には干支があって、あなたは巳年だ」と聞いていたのかもしれない。

リンポチェ「まあよかろう。よく考えてみなさい」

そして、祝福の儀式をしてくれた。

今思うと、せっかく勧めてくれたのだから、もっと気軽にチベット仏教の道に入っていたら、まったく違う人生になっていたかもしれない。出会いを活かすかどうかは、一つの大きな決断。まさに電光石火の瞬間だ。

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カール・リンポチェがどういう人物なのか、当時の私はまったく知らなかった。

日本に帰ってから知ったのだが、彼はチベット仏教で最も大きな派の一つであるカギュ派のトップであり、第14世ダライ・ラマの養育係も務めたことがある。直接の教師ではないが、影響力は大きかった。

1970年代には欧米で広範に教えを広め、12カ国以上に教えのセンターを設立。一人目のチベット人ラマとして、西洋にチベット仏教を導入した先駆者として知られるようだ。

新宿の紀伊国屋書店で何気なくオウムの雑誌『マハーヤーナ』を手に取ると、「尊師の前世のグル、カール・リンポチェが涅槃に入った」と書かれていた。

オウムが事件を起こすずっと前であり、中沢新一吉本隆明荒俣宏などがリスペクトする文を書いており、各大学の学園祭でも講演していた時代だ。

麻原彰晃は、カール・リンポチェを前世のグルとして尊敬していた。宗教学者中沢新一も、カール・リンポチェほどの人物が認めた麻原は本物だ、といった趣旨のことを雑誌『SPA!』で語っていた。

──お会いして一ヶ月後に、亡くなっていたのか。

ぎりぎりの時期における貴重な出会いだったわけだ。

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それから3年後、再びインドを訪れた。

カルカッタがあまりに暑かったので、避暑地である高地のダージリンに移動した。さらにその隣のシルグリーで、カール・リンポチェが転生したことを知った。

わざわざ山の中を探し求め、転生したリンポチェ(当時3歳の子どもだった)に再会を果たした。

ダライ・ラマは、数ヶ月前にその地を訪れ、元の師匠であるカール・リンポチェの転生者である3歳の子どもに五体投地して礼拝したという。その姿を見て、参列した人々は皆涙を流したそうだ。

「もしあのとき、出家していたら――」という思いが胸に残る。

人生には、瞬間的に差し出される“もう一つの道”がある。
しかしそれを選ばないこともまた、人生の真実。さまざまな「縁」に導かれていくのだな。

昨日、チベット仏教の修行をし(ゾクチェンの道)、飛騨の山中にタルタン寺院を建設している友人から著書が届いたので、このことを思い出した。

※『わたしの精神史・宗教史』の本作りのために、ペースメーカーとして原稿を投稿しています。