過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【痛々しいと言われて】2025.10.19

【痛々しいと言われて】2025.10.19

こういうコメントが来た。相手はプロの宗教者である。

「多分、池谷さんは宗教と不幸な出会いをされたのでしょう。
出逢った宗教を先ず自分の知識で捌いてみて、それを自分の知識として、取り入れたり批判したり、、勿論それはそれで大切な事かも知れませんが、どこまで行っても、信仰とは無縁です。
 多分自分は信仰者では無いとおっしゃると思いますが、私から観たら、信仰を何処までも求めておられるようで、少し痛々しくて辛いです。
 信仰は無条件で帰依するものに出会うという事からしかはじまりません。
 楽しんでおられるのかも知れませが、、そのまま死ねますか。

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こういうたぐいは、無視すればいいのだけど、すこし腹ただしい。相手がガチのプロの宗教者(能登真宗)ということもあるので。こう返しておいた。

「なんというかなあ。ひとにたいして『痛々しい』というのは、ぼくは使いません。能登は今の姿はたしかに『痛々しい』けどね。
なんか、『痛々しい』というのは、無神経な上から見ている心のありようですね。言われた人は行動や努力、あるいは存在そのものを見下したり、否定したりするかのように響く、とても無神経で失礼な言葉で不快に思う。そんなことはあなたは宗教者だから、知っているはずだけどね。知らないとしたら、『痛々しい』。
『そのまま死ねますか』というのも、なんとも失礼極まりなし。
まあプロの宗教者には、無神経なヤカラが多いのがわかる」

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そもそもわたしは信仰を求めているわけではない。探求しているのだ。いつまでたっても探求なのだ。