過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

③【国柱会を訪ねる】2025.10.18

③【国柱会を訪ねる】2025.10.18

国柱会という存在は歴史的に知っていたものの、現在も活動していることをその本(『日蓮主義教学大観』国書刊行会発刊)によって初めて知った。

「これはいちど訪ねてみよう」と、本の奥付に記載されていた本部(東京都江戸川区一之江)に出かけた。

大橋富士子さんという70代の女性が応対してくださった。その方が田中智學のお孫さんであった。それがご縁で、田中香甫(田中智學の長男、国柱会の第2代会長、日蓮宗門下連合の会長)さんにもお会いすることができた。

田中会長は、自宅の書斎に招いてくれた。いろいろ仏教談義を重ねていく。
東大のインド哲学科のときに、東大の和辻哲郎博士のもとで学んだという。和辻は仏教思想や日本文化に深い関心を持ち、学生に哲学・倫理学を講じていた。

和辻は『原始仏教の実践哲学』(1927年、岩波書店)を著し、釈迦の教えを現代倫理に活かす視点を提示していた。国柱会の思想と仏教哲学の接点を垣間見た。

そんなやりとりをしていると、話は創価学会に移った。
というのは、田中香甫さんは、ペンネームで創価学会批判の本を書いていたという話になったからである。
「本が売れて印税が書留で届いた時、ペンネームの印鑑がなくて困ったよ」と笑っていた。

⦿---------------------------------------

創価学会不敬罪治安維持法によって弾圧された理由(幹部が投獄され、初代会長の牧口常三郎が獄死した)について、田中香甫さんと語り合った。

創価学会の弾圧は、1938年の国家総動員法と1940年の宗教団体法による宗派統制が背景にある。

日蓮宗は多くの派閥で分裂し(日蓮宗顕本法華宗日蓮正宗国柱会など)で対立し、政府の『統合せよ』の圧力が高まった。

1941年の日蓮宗合同協議会で、小笠原慈聞(日蓮正宗僧侶)が統一を推進した。

しかし、創価教育学会(当時の名称)は、妥協せず伊勢神宮の神札拒否する強硬な姿勢を取っていた。

⦿---------------------------------------

そのため、創価は弾圧されることになった。1943年に逮捕され牧口常三郎の獄死(1944年)につながった。創価学会は、その背後で画策したのが小笠原慈聞だと認識しており、彼こそが「仏敵」であり「獅子身中の虫」だとみなしていた。

とくに彼の主張した、『神本仏迹論』(神が真実で仏はその影という説)は国家神道への迎合を示すもので、「謗法」(法を冒涜する行為)と批判されていた。

1953年、日蓮の七百年祭が開催された。日蓮が、「南無妙法蓮華経」の題目を旭に向かって初めて唱えたのが、建長5年(1253年)。それから七百年にあたる法要だ。

その法要のために、小笠原慈聞が富士大石寺に登山(参拝)してきたところを、創価学会青年部の数十人が取り囲み、老僧を担いで牧口常三郎の墓前まで連れて行った。

「『神本仏迹論』は誤りであったと認めよ」

と迫り、小笠原慈聞に謝罪文を書かせた。
通称「小笠原事件」という。創価では「たぬき祭り事件」と呼んでいた。

⦿---------------------------------------

こうした強引な行為は、牧口の獄死(1944年)への報復であり、脅迫罪に該当する可能性があった。

1950年代、創価学会戸田城聖のもとで「折伏大行進」として布教拡大。急成長し、日蓮正宗内部での主導権を握っていた。

小笠原事件は、創価学会の「謗法呵責」(誤った教えを厳しく排斥)の姿勢と、戦時中の弾圧への反発を示している。

国柱会(田中香甫)は、日蓮正宗とは別路線で日蓮主義を推進し、創価学会の過激な行動に批判的だった。この事件は、両団体の思想的・組織的対立を象徴している。

小笠原慈聞は事件の顛末を『創価学会の真相』などの冊子で事件を批判的にまとめ、日蓮宗諸派に訴えた。
田中香甫会長のもとにも、小笠原慈聞からその冊子と手紙が届いたと言っていた。

⦿---------------------------------------

「今度来られたときに、その手紙を探してお見せしますよ」と言われた。「それは楽しみです」と次回の訪問を約束したが、私がぐずぐずしているうちに田中香甫会長は亡くなってしまった。

ともあれ、国柱会とも縁ができ、その運営する施設(有料老人ホーム:申孝園ロータスヴィラ)の天文台を借りて、星空観察会を企画したこともあった。

同じ『法華経』と日蓮主義という思想的源流から、宮沢賢治のような芸術的で普遍的な人間愛も生まれ、北一輝石原莞爾のような過激な国家主義も生まれた。

さらに、創価学会の弾圧とそれに対する復讐劇的な事件も起きた。思想そのものの純粋性が歴史の荒波に揉まれて変容していくのであった。

※長いので3つのパートに分けた。

『わたしの精神史・宗教史』の本作りのために、ペースメーカーとして原稿を書き続けています。