過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【四畳半の修行者】2025.10.18

【四畳半の修行者】2025.10.18

霊的な力があるという紙田さんを訪ねたのは、今から20年前、私が52歳のときだった。

友人が半年前に亡くなった父親の供養をしてもらうためで、私はただの好奇心から同行した。
場所は尼崎市にある、安普請で少し小便臭さが残る木造アパート。

階段を上がると、ギシギシと音がした。

紙田さんはその四畳半一間に暮らしておられた。84歳だという。

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「こんにちは。失礼します」

ガラガラと戸を開けると、紙田さんはステテコ姿でテレビを見ていた。

「いやあ! よく来たね」

屈託なく、淀みのない満面の笑顔。

それだけで、なんだかとても安心した。

彼は霊的次元から供養をしてくれるという。お金は一切取らない。

「お金を取ると、霊を供養する力が落ちてしまう。自分は軍人恩給で暮らしていけるので、お金をもらおうとは思わん」

「先生」と呼ぼうとすると、「先生などと呼んでくれるな。それぞれが先輩・後輩なんであって、先生じゃないんだ」とおっしゃった。そこで、私たちは〈おじちゃん〉と呼ぶことにした。

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紙田さんから聞いた話である。

戦争でフィリピンに行ったとき、わしには100人ほどの部下がいた。しかし、生きて帰れたのは一割ほどだった。

敗戦後、戦死した部下たちが「ずっと迷い続けていて苦しい、どうか助けてほしい」と霊となって現れるようになった。

靖国神社に詣でても、祀られている霊は成仏していないことがわかった。彼らは現世に執着し、次の霊界に行けていない。靖国に祀られても英霊(つまり神さま)にはなっていない――そう強く感じた。

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わしは真言宗の寺に生まれたこともあってか、霊感があるようだ。こうした不成仏霊がたくさんいることを実感した。

どうもこうした不成仏霊は、仏教では救えないのではないか。仏教よりも古来の神道の行法のほうがよいのではないかと思った。

そこで、ひとり秩父の三峰の山中で修行に入った。はじめは40日間の断食行、それから無言の行、そして滝行と続けた。

無言の行は、一言でも発したらまたゼロからやり直し。数か月かかった。滝行をしていると、滝の中にいるのに、自分は空を悠々と飛んでいる。そして、空から滝に打たれている男を見下ろすと、それが自分だった――そんな体験もあった。

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先祖供養はとても大切なことだ。

やはり供養は、子孫がしなくてはならない。

必ず先祖の中には不幸な死に方をした者がいる。子孫はその影響を受ける。

ある先祖が死後に迷い、成仏できずに苦しんでいると、その苦しみに子孫は共振しやすいのだ。

自分が明るく健康的な生き方をしていれば、そんなことに共振することはない。

しかし、不規則な生活をしていたり、他人の悪口を言い、イジイジした生き方をしていると、そういう先祖の苦しみを受けやすい。苦しみの周波数に共振しやすいということだ。

だから、「低級霊」や「不成仏霊」をいくら追い払っても、自分自身の生き方を変えない限り、いたちごっこになる。

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では、どうしたらいいのか。

まず、自分がこうして生きているのは、大きな力に「生かされている」からだと自覚することだ。親があって、その親があって……たくさんの先祖によって、いまの自分がある。それをしっかりと自覚すること。

先祖に感謝する、守護霊に感謝する――それだけで生き方は改善されてくる。毎朝、先祖と守護霊にお礼を申し上げる。

そのために、特に仏壇も神棚もいらない。太陽に向かって拝んでもいい。

次に大切なのは、生きているということは、仕事をしていることだ。仕事とは生きているそのものだからね。

だから、与えられた仕事をいやいややっていたり、不平や不満や愚痴をこぼし、被害者意識でやっていたら、人生はいい方向には向かわない。

守護霊がなんとか助けようと思っていても、そういう人は助けにくいんだ。

仕事とは、どんな仕事であれ、必ず世のため、人のために役立っている。

そのことをよく自覚し、仕事に打ち込むのだ。感謝して仕事をすれば、効率はぐんぐん上がるし、生き方もよくなる。

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そう話してくださった後、紙田さんは私たちの先祖の供養をしてくださった。

別室で着替えると、きりっとした神式の衣装をまとっていた。

格調高いお姿で、隣の部屋の祭壇の前でお祓いをしてくださる。

何がすばらしいかというと、その屈託のなさ、無欲さ、あっけらかんとした明るさが、なんとも心地よかった。

世の中にはこういう方がたくさんおられると思うが、自分で宣伝することはない。だから、こうした方に出会うのは難しい。