過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【笹目仙人のこと】2025.10.17

【笹目仙人のこと】2025.10.17

弾圧を事前に察知していたのか、王仁三郎は笹目氏にこう命じた。
御神体をモンゴルの崑崙山の頂上に埋めてくるように」

笹目氏はこの難業を成し遂げたという。崑崙山の麓から、なんと鶴に乗って数千メートルの山頂まで赴いたとの逸話が残る。この「鶴船」の話は、ひとつの霊的体験談として語り継がれている。

この体験を記した『神仙の寵児』の復刻版刊行が決まり、1991年、出版社の社長と専務が仙人を訪ねることになった。私も同行を許された。

今から三十余年前のことだ。笹目秀和師(1902-1997)を訪ねて、多摩の大岳(おおたけ)の「道院」に行った。笹目師は「笹目仙人」と呼ばれていた。

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戦前、「大本」(おおもと)という神道系の新興宗教が大きな勢力を有していた。国家経綸(国を治め建て直す)思想を掲げ、知識人や軍人にも支持者が多かった。

その指導者、出口王仁三郎大正13年、モンゴルへ布教の旅に出た。「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり」という壮大な構想だった。

この旅に随行した一人が笹目秀和師であり、他に合気道創始者植芝盛平氏も同行していた。しかし、天皇絶対制を掲げる軍部は、世俗を超えた影響力を持つ大本を危険視した。
治安維持法を盾に大弾圧が始まり、ダイナマイトで神殿は破壊尽くされ、王仁三郎は逮捕された。
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道院を訪ねると、私と親しい山田龍宝さんと居合わせた。

「最近、足が痛くてなあ」という仙人は龍宝さんに言う。
「今晩、部屋に伺って治してさしあげましょう」と龍宝さんは応じた。

龍宝さんは「切診整体」の達人である。その整体法の極意は、「力で押さない」ことにある。指の力ではなく体重を預け、それを指で支える。そうすることで、ずしりと響く圧が生まれ、施術者も疲れない。「切」の字は「適切」「痛切」の「切」――すなわち「ぴったりと合う」ことを意味する。ただ垂直に体重を預けるだけの単純な動作だが、これが適切に行われた時、整体は真の効果を発揮する。

整体が始まると、「おお、痛いですなぁ」と仙人は顔をしかめた。
「これくらい我慢しなくちゃいかんですよ」と龍宝さん。仙人が施術を受けている間、私はその枕元で貴重な話を聞くことができた。翌朝、仙人は「龍宝くんのおかげで足が治ったようだ」と喜んでおられた。

以下は、その時に仙人の枕元で直接うかがった話である。

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大東亜戦争終結後、大陸にいた日本軍はソ連軍に武装を解除され、仙人は11年余りにわたってシベリアに抑留された。極寒と飢えと過酷な労働の中で、数万人の同胞が命を落とした。

仙人は、食べ物のない中で「太陽の精気を食べる」「月の精気を食べる」という行法によって命をつなぎ、生き延びたという。

お会いした時、仙人はとてもがっしりとした大きな手をしておられ、「この手でロシア兵を何人もぶん殴ったものだ」と笑って話してくれた。

今の天皇陛下との出会いの話も面白かった。

浩宮親王の時代、よく大岳にハイキングに来られていた。警備の人々が数日前に下見に来るので、「浩宮が登山するな」と仙人にはわかっていた。

当日、仙人は親王が通るコースに待ち構え、先頭を歩く浩宮親王に「殿下、お待ちしていました。どうぞこちらへ」と声をかけ、自身の道院に殿下を案内したのだった。

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仙人を整体した山田龍宝さんも、異色の経歴の持ち主だった。

初めてお会いした時、私たちはいきなりヴィパッサナー瞑想(現代のマインドフルネスの源流)の話で盛り上がったことを懐かしく思い出す。

1970年代に曹洞宗のサンフランシスコ禅センターで禅僧として指導していた。ヒッピームーブメントの真っただ中、宇宙飛行士のシュワイカート氏や、ミュージシャンの宮下富実夫氏、心理学者の吉福伸逸氏ら、幅広い交流を持っていた。

龍宝さんは我が家に長期滞在し、仏教、禅、神道について夜を徹して語り合ったものだ。

その後、龍宝さんは奈良・天河神社の近くに移住した。晩年は緑内障を患いながらもアメリカで活動したが、ガンのため同地で永眠した。