過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【南無阿弥陀仏と揃って称えない浄土真宗】2025.10.9

南無阿弥陀仏と揃って称えない浄土真宗】2025.10.9

広島にいた頃、初めて浄土真宗のお寺と出会った。二十五歳のときだ。今回は、その広島時代の補足である。

それまで「称名念仏」といえば、皆が揃って「南無阿弥陀仏」と称える(真宗では、唱えるとは言わない)ものだと思い込んでいた。

しかし、実際にお寺で参拝者の様子を見ると、それぞれが「なまんだぶ、なまんだぶ」と、数遍、つぶやくように称えている。一緒に声を揃えるのは、親鸞の詩のような『正信偈』や『和讃』である。これは30分も40分もかかる音楽性のあるものだ。

⦿---------------------------------------

学生時代まで創価学会に属していた私にとって、「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」とは、皆で揃って唱えるものと思い込んでいた。

創価学会などは、選挙の時などは、「題目闘争」といって、拠点では南無妙法蓮華経と10時間位揃って唱えたりしていたのであった。私自身、一時間も二時間も唱えるのは、それほど難しいことではなかった。

たくさん唱えることで、そのエネルギーが充実感や達成感を生み、心が澄み渡るという体験を得ていたわけだ。

だから、浄土真宗にあっては、南無阿弥陀仏とみんなで称えるのに違いない。称えていく中に法悦があり、その先に往生や成仏がある——。それが浄土真宗の教えだと思い込んでいた。

親鸞の師である法然は、一日に数万回の念仏を称えたと伝えられ、特に『四十八巻伝』によれば、善導の教えに従い、普段は一日六万回、臨終の際にはさらに一万回を加えていたとされる。だからこそ、浄土宗のお寺では、木魚を叩きながら「南無阿弥陀仏」と盛んに称える。

そもそも、さまざまな宗派や宗教を見渡すと、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」、真言宗の不動真言ヒンドゥー教の「オーム・ナマ・シヴァーヤ」や「ハレ・クリシュナ」など、真言マントラ)は皆で揃って唱える。イスラム教でも「アッラー・アクバル」と叫んだりするではないか。

⦿---------------------------------------

ところが、浄土真宗では、皆で揃って「南無阿弥陀仏」を称えない。それが不思議でならなかった。

どうしてだろう?

少し調べてみると、これは浄土真宗が徹底して「他力」の教えであることと深く関係しているようだ。すなわち私たちは「如来の本願によって救われる」のであり、「如来のほうから救済してくれる」というのである。

自分にできるのは、そのことに「気づかせていただく」ことだけだ。念仏は、そのことに対する報恩感謝の表現なのだという。

※「信」の問題は大きいが、そこは浄土真宗教学の複雑な領域に入り込むので、ここでは本題から外す。

ともあれ、真宗は、念仏の量や祈りの力によって往生や成仏が得られるという教えではない。この点が、法華経の行に親しんできた者にとっては、まったく異質なあり方であり、かえって拍子抜けしたのだった。

※「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の違い、唱え方に依るエネれるギーの違いについては別稿で論じたい。