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【日蓮の教えは『法華経』から逸脱している】2025.10.7

日蓮の教えは『法華経』から逸脱している】2025.10.7
仏法学舎の金田先生からは、『法華経』について学んでいた。
法華経』のポイントは何か。それは、「三乗方便道」にあるということだ。
どういうことか?
このあたりは、説明すると非常に煩雑になるので、大雑把に説明する。
法華経』の言いたいことは、それまでの聖者の道(声聞、縁覚、菩薩)を否定して「一仏乗」を示したのではなく、声聞、縁覚、菩薩としてそれぞれの道を歩んでいけば、それがそのまま「一仏乗」になるという点にある。
〈譬えのあらすじ〉
家が火事に包まれている(三界は火宅の如し)が、子供たち(衆生)はそれに気づかず遊び続けている。父親(仏)は、子供たちを救い出すために「門の外に羊車・鹿車・牛車があるよ」と声をかける(三車=三乗の方便)。
子供たちは喜んで家の外に飛び出す(火宅を脱する)。父親は、約束した三車ではなく、一同を乗せて運ぶ大白牛車を与える(一仏乗の真実)。
これは、次のことを示している。三車(三乗)は衆生を火宅(迷いの世界)から脱出させるための方便である。
しかし、実際に門の外で与えられるのは、三車ではなく一つの大白牛車である。
三乗の教え(方便)は方便道であり、結果的には一仏乗(真実)に導く。
経典の要文を示す。
「我、もろもろの声聞をもってして、皆、ことごとく一乗の道に入らしむ」(信解品)
「唯一の仏乗のみあり、二もなく三もなし」(薬草喩品)
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それまでのテーラワーダ仏教は、ブッダの教えを聞いて読み、その道を歩む声聞道(阿羅漢)であり、縁覚は独覚というように一人で修行して悟りを開く人、大乗仏教衆生を救う菩薩道を示している。
それぞれが自分たちの道だけが正しいとしていたが、『法華経』はそれぞれの道をそのまま歩めばそれが成仏道となると説き、声聞、縁覚、菩薩の道を否定せず、肯定している。
ここに『法華経』の独自性がある。すなわち、三乗は方便であるが、無意味ではない。三乗(声聞・縁覚・菩薩)は、衆生を救うための有効な手段として認められている。
これは、「三乗という方便を通さなければ、一仏乗という真実には至れない」ともいえる。
すべての衆生は最終的には仏となる。三乗で修行する者も、いずれは一仏乗(仏の境地)に至ると約束しているのが、『法華経』のポイントだということである。
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ところが、日蓮の場合には、声聞、縁覚、菩薩という三つの道を否定して、『法華経』という唯一の「成仏道」があるのだ、としている。それがすなわち、南無妙法蓮華経であるという。
南無妙法蓮華経とは、日蓮にあっては、妙法蓮華経という経典に帰依するという意味を超えて、「南無妙法蓮華経」という七文字そのものが成仏道であるとする。
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と日蓮は断言する。
末法とは、釈迦の滅後、三区分した最後の時期。正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)を経た後の一万年間。仏法が衰え、修行して悟る者のいない時代をいう。そして、鎌倉時代末法に当たるので、釈迦の経典がいろいろあっても、得道しない。極端に言うと、『法華経』ですら意味をなさない。
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極論すれば、「ただ南無妙法蓮華経のみが成仏道」であるということになる。いわば、末法の切迫感から生まれる「極論」ともいえるか。
これは、上記の『法華経』の教えからすると逸脱している。
日蓮は、『法華経』の教えから外れている、ということになる。
もう一度整理する。
法華経』の立場: 三乗(声聞・縁覚・菩薩)はそれぞれがそのまま一仏乗に至る道である(包容・統合)。
日蓮の解釈: 三乗を否定し、『法華経』への帰依、さらに「南無妙法蓮華経」という題目そのものを唯一絶対の成仏道とする(選別・排他)。
まあ、大雑把に言うとそういうことになる。
テーラワーダの声聞道から大乗の菩薩道までを、すべて一仏乗に包摂するのが『法華経』の要諦である。
ということで、きちんと小乗仏教テーラワーダ仏教)を学んで修行していくのが正しいという教え方であった。
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こうして、仏法学舎でいろいろな仏教の経典や祖師大師の教えを学んでいくにつれて、日蓮の教えが偏っていることがわかってきた。
頭では日蓮の教えの限界は理解できてきた。ただ問題は、身についてしまった「体質」にあった。
頭で理解できる「教義の限界」と、身体に染みついた「信仰の体質」は別物である。
すなわち、ちゃんと創価学会の本尊を拝めば幸せになるし、軽んじたら不幸になる。頭が七つに割れるという教えがあり、その恐怖感に未だ囚われていたのである。
「本尊を拝めば幸せになり、軽んじれば不幸になる」
「頭が七つに割れる」
——これは単なる理論ではなく、度々の交通事故や創価学会の活動を通して身についてきた、信仰者の原初的な感覚であり、いのちに刻まれた記憶みたいなものだ。自分の中の信仰の残滓がとれないのだ。
日蓮創価学会の教えは、知識としてその「偏り」を理解しても、この「体質」から脱却するのがなかなか困難である。そこから、いかに脱却するか突破していくか。人生の「火宅脱出」が次のステップであった。