過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【仏法学舎との出会い】2025.10.7

【仏法学舎との出会い】2025.10.7

27歳のとき、楽器製造の会社から、電子部品(当時はオーディオテープやカセットテープの大手)の製造会社に転職した。

住まいは広島から千葉の市川、そして埼玉の大宮に引っ越すことになる。仕事はルート営業である。景気は良かったが、決して面白くはない。大手企業にいると歯車の部品だからね。

数年の営業を経て、本社勤務となる。こちらは営業管理、生産手配、外国の現地法人とのやり取り、貿易。毎日、パソコンで計算ばかりしているような日々で、これまた面白いわけではない。

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やはり仏教を学びたいものだと常に思っていた。

東京暮らしだったので、いろいろな集いに行ける。各地での講演会に参加した。真宗の過激な新興宗教である親鸞会の集いに出たり、築地本願寺で日本中世宗教史(鎌倉仏教)の笠原一男(かさはら かずお)さんの講演に出たりした。

鎌倉仏教研究の戸頃重基さん、天台本覚思想の大家、田村芳朗(たむら よしろう)さん、華厳経の大家、鎌田茂雄さん、密教の金岡秀友(かなおか しゅうゆう)さん、インド哲学・初期仏教の権威、中村元(なかむら はじめ)さんなど、さまざまな学者の講演会にも出かけた。

まあ、大衆向けのお話なので、物足りないというか、こちらの理解力が足りない。もっと手応えのある、質疑応答がその場でできる学者や修行者にお会いしたいものだと思っていた。

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そんな折、朝日新聞のサークル案内に「仏教を学ぶ会」(仏法学舎)という集いが載っていた。電話をしてみると、「『この集いはすごい出家者が講義してくれるから、ぜひ参加するといい』という」。余談だが、その方が鈴木一生さんといって、後にテーラワーダ教会を設立することになった。

「おもしろいかもしれない。ともあれ、出かけてみるか」

と、翌週には、大宮から浅草の仏法学舎を訪ねたのであった。30歳の頃である。

地下鉄稲荷町の近く、上野からずっと仏壇屋が続く界隈に、その拠点はあった。

訪ねてみると、仏壇屋の雰囲気で、ショーウィンドウには「写経のすすめ」とか、なにやら難解そうな曼荼羅の図が掲げられていた。会場は20畳くらいの部屋。そこに、やや太り気味のお坊さんが椅子に座って講義していた。

受講生は10〜20名くらい。みなさん、30代から40代。

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講師の先生(金田道跡:かねだ どうしゃく)は、60代。足が悪いらしく、歩くのはつらそうで、だいたい椅子に座って話をされている。

受講生から質問を受けると、ホワイトボードに瞬時に曼荼羅を描く。頭の中に小乗仏教から大乗仏教、そして密教の体系が出来上がり、瞬時に図示することができるようであった。

わたしは、それらを受け入れる素地がない。当初は、何を言っているのかまったくわからない。

「『大乗起信論』(大乗起信論:馬鳴[めみょう]著)を読んだか?」

「『秘密曼荼羅十住心論』(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん:空海著)はどうだ?」

「『倶舎論』(くしゃろん:世親著)は読んだか?」

そう聞かれたが、それらの名前すら知らなかった。しかし、話を聞いていると、話しっぷりは見事でわかりやすい。即座に図示してくれるので、なにやらわかったような気がしてくるのであった。

金田先生の話は面白いし、聞けばちゃんと答えてくれる。それも、ほとんどすべて『倶舎論』や『中論』、仏典に根拠のあるものを整理して説明してくださるわけだ。

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講義は昼から夕方まで続いたが、帰ろうとすると、「これから夕食会がある」と誘ってくださった。仏法学舎の会場の二階で、奥様が見事な料理を作ってくださっていた。

それがまた実に美味しかった。帰るときには、お弁当までいただいた。これが、切り干し大根のおかずであったが、大層美味しいもので今でも思い出す。

受講料はというと、それが取らないのだ。各自がお布施として、それぞれの気持ち次第という。これまでいろいろな方が聞きにきたという。なかには、幸福の科学を始める前の大川隆法も聞きに来たという。

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私は、その学習会に惹かれて、毎週の土日は講座に参加することになった。

土曜日は『秘密曼荼羅十住心論』、日曜日は『法華経』を教材に講座は進んでいった。わたしは日蓮の教学をベースにして天台教学を学んでいたので、そのフィールドでいろいろと質問する。金田先生は、質問を受けると嬉しそうに、なんでも答えてくれた。私は調子に乗りすぎて、ずけずけと質問をしていた。

それまでの受講生の中では、とくに仏教的な知識を持っていた若者(私は当時は30歳)が参加したことで、集いに活気が生まれたのかもしれない。

秩父の温泉や浜松の方広寺、御岳山などで合宿しての講座があった。こうして仲間との仏教の学びは楽しかった。「文章を書きなさい。まとめなさい」とよく言われたが、いざまとめようとしてもまとめられなかった。当時はほとんど文章を書けなかった私である。

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金田先生はワープロ(当時は100万円くらいする時代)を使って、ばんばん文章を作っていた。

後にテーラワーダ協会を作る鈴木一生さんが幹事をしていた。鈴木一生さんの家は大きな米屋で、お米を横須賀から出る漁船に販売していたようだ。ゴルフの会員権販売の会社を経営していた。学習する仲間も同業者が多かった。

知識の整理と仏典の読み方、捉え方については、大いに学ぶところがあった。ただ実践的には、わたしには惹かれるところがなかった。

お経は、道元の『修証義』のようなものを金田先生独自に修正したものを訓読する。そして読むのは『般若心経』の訓読。瞑想は、金田先生の作られた成仏道に至る道を整理した曼荼羅を見て瞑想するというものであった。

そしてみなさんは毎日、『般若心経』の写経をしていた。

これらの行は、わたしはおもしろくなくて、そもそもやらなかったけれど。

とにかく学ぶこと自体が楽しかった。難解で哲学的な仏教が非常に構造的に整理されていくようで、嬉しかった。合宿での学習会もあった。

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当時の私は、本社勤務の仕事が上司とうまく行かず、とてもつらい日々を過ごしていた。

幹事の鈴木一生さんから「不殺生戒を実践してみたらいい。それから酒を断つように」と言われて、以来、酒を絶ってベジタリアンの暮らしになった。

そうすると、それから一年、問題があった仕事の進め方など見事に解決してしまった。上司は他の部署に転勤、わたしも国内の営業管理から、ドイツとイギリスを担当する部署に移動となり、またよき上司にも恵まれることになった。

人生の規則的な折り目が、未知の世界に踏み込んでみると意外な展開があることがわかった。

27歳での転職から始まり、仕事のルーチンに埋もれながらも、心の奥でくすぶる仏教への渇望が、浅草での出会いに結実する流れは楽しかった。

日常の仕事に埋没する「歯車」のような退屈さから仏教の世界に広がっていった時代である。